自分   

最終更新:2022.11/29 更新回数:数百回 =最終更新時に新規追加した文 常識外、ほかに例を見ない、現時点で人間が定めたことに当てはまらない、通常とは逆、誤解され続ける、軽視され続ける… 「今生きている人間(80億人)の中で、最も驚くべし人間」かもしれない…そんな存在である自分の詳細。衝撃告白。 「読むのが苦」だという方は、自分簡易版↓をご覧ください。(↑これも派手に勘違いされる言葉であった)

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- 目次 -
基本情報
学習の件
病気の件
最重度知的障害者認定の件
挑戦
その他の情報
現状打破法一覧
現状打破 最有力案
まとめ
当ページ誕生までの経緯
嘘ではない証拠
あれこれ思うこと ⇐更新多
聞きたいこと・連絡先



   基本情報   
まず「ギフテッドが原因の作為症(イメージ)」。 ↑作為症の部分は「仮病」、「故意多重人格」とも言い換えられる。 身近な人に(実際とは反して)低い水準の人間と思い込まれているため、 低い水準の人間(障害者)に故意で見せかけるようにしている…そんなほかにいない、驚きの人間である。 日本語で完結に言うとそれ。 それが唯一社会で見つけた、救われた気持ちになる正解のワード。 (無理にでも社会の中に存在する型にハメるとそういう表現になる。社会に存在している型、言葉で表現しないと人は受け入れない) そして、何もわからないできない障害者の素振りをしていたら本気でそう思われ、 「最重度知的障害者」認定され「障害者詐称の犯罪者」になり、 そのことを隠すためその素振りをやめざるを得なくなり一生涯そんな素振りをし続けるかもしれない。…驚きの人間。 仮病(作為症)はいつからやっていたのかというと、物心ついた時点からやっていた。 できすぎるにも関わらず、低い水準の人間と思い込まれているために能力を抑え、 低い水準さながらの人間に見せかけざるを得ない空気感だった。 演技で抑えるようにしていることは、ありのままではないので当然、苦しいこと。惜しいこと。 そういう空気感でなければそうせざるを得ないようなことにもならなかった。 空気感を守るためにあえてそうしたが、苦しいのでそうしたくない気持ちも強いわけだ。 見せかけたくてそうしているとも、そうでないともとれる。 仮病はしだいにエスカレートさせざるを得ない空気感になった。 まず大きくエスカレートさせたのは小学校入学時。 その後もやらざるを得なくなった数回の大きなエスカレートを得て、今に至る。 痛いことに誤解され誰にもまるで理解されなかったので…(酷い失態) 誤解を招かないように、また冒頭しか見ない人への配慮を込めて「初め」に頭括式で概要を述べておいた。 真実は仮病であり、病気でも障害でもなんでもないため、治る治らないの話ではない。 「病気、障害、治る、治らない」自分に対してこれらのワードを1つでも言う人は、その時点でまるっきり勘違いしている人。 それらを言わない人はいない。つまり理解者は0。 …初めにこれだけ言っておけば、少しはまともに理解してもらえる…と信じたい。 (どうあれ、このページ自体見る人がほとんどいなくなってしまったので、今更遅い感じ) 以下結論後の尾活式で深掘り。 (まだ勘違いを招きそうな文章があちこちに残っており、支離滅裂に感じるところがあります。また全体的に修正したい) 自分は小学校入学時から現在まで家族以外の人と一切話をしていません。 小5からは家族とも話をしていません。 高2から誰一人として誰とも話をしていません。(執筆時) 「話さない時」は即ち、自発的に何かしているところを誰にも見られないようにしています。 誰とも話さない今は、人前では常時その状況。 話せないフリ、自発的には動けないフリをし続けないといけないような状況になっている。 その状態で定着してしまったのでそういったフリをするのをやめる勇気がなく、もうやめれない。 「自発的に」行動しているところを人に見られてしまうので密かに外に出ることもできない。 何もできない人を演じ続けている状態で、「言葉がわかるかどうか字が書けるかどうかも曖昧なフリ」をせざるを得なくなっています。 よって意思表示も何もしてはならず、何かを選択することもできません。 やれないことになっているため、1人の時「何かした形跡を残す」こともしてはならない状況。 行動、判断、言動を「なし」としている。 そのため何もしない何もしていない何もできない。。 即ち基本「責任を持つ」ようなことにはならない。 どうやって生きてきたかというと、想像を絶するような形です。 そして今や重度知的障害者“ということに”され、それ相応な扱いをされるようになってしまいました。 このような人はおそらく世の中で自分だけでしょう。 どう思われますか? これや、これなど比ではない。。どれだけ仰天?w(もし、気に障る発言だったとしたらすみません) どれほどのものか伝えるために言っておきますが、 「学校」では喋ったことがないどころか、誘導されずに動いたことはないし、 着替えたことも、食べたことも、トイレの中に入ったこともありませんでした。 自分で教科書を開いたこともないし、ペンを出して字を書いたこともない。音読なんてもってのほか。 最初の3年間は1分以上座ったこともありませんでした。 見聞きしていただけ。 入学前までのころはごく普通、普通の人生でした。 入学後も小5までは家では普通でした。学校だとあれなのに家ではどうして?と不思議に思われる人間でした。 (注意:気づいていなかったが他人の前で本来を見せることに無理はないので〈気づいたのは2010年頃〉、  正確に言うと、〈誰ともではなく〉知人とは話さない。〈「人前」ではなく〉「知人の前」では常時その状況) … 原因はなんだったのか? 簡潔に言うと… 園で辛いことがあったから…それもあるかもしれないが、1番は「自分の個性」… 問題はそこにある。 結局を言うと…自分が変わっていただけ…。 普通子供なら何も考えず、ありのままに生きているはずなのに、 自分の場合、あらゆることに対し、色々考えてしまう性格だったがために、こうなってしまった。 もともと何かすると家族に大げさな反応(良い意味での)をされてしまうから…それがあれで、知恵を凝らし、 できないフリ、やれないフリをし続けていたわけです。物心ついた(3才)時点からすでにそうだった。 家族を始めとした身近な人達の前で「その人が思っている自分の普通」になるように演技してやり過ごす形ができていた。 誰も全くわかっておらず、哀れなことに今そう言っても誰も信用しない。 演技=フリ。 そういう“フリ(演技)”をすることが発展してしまった。 大げさな反応というのは良い意味でのあれだが、度を越してしまい、まずいと思えるような感じだった。 できすぎてしまうので、その力を隠していた感じ。 大げさな反応をされていた(驚かれていた)理由として「自分はいつも年下だったから」というのもある。 年下だから(←そういうわけで〈クズだの知的障害者だのどうこうではありません〉)見た目的に軽視され、 常識的にみて能力が1番低いものだとばかり思われていたわけです。 だから少しでも力を見せると驚かれた。それもこうなった理由の1つ。 (そのことに気付いていなかった馬鹿野郎ではありません。今気付いていたことにしたわけではありません。  断じてそうではありません。言い訳ではありません) しかも、その少しで全力だったわけではなく、本当は身近なところにいる年上の人達を上回ってしまうほどの力があった。 よく家族にはできないことができて絶賛される(驚かれる)と恐ろしくて、 「もうできるところを見せてはいけない」的な感じになったもの。 今でも別の意味で軽視されていて(そうでなくても)家族辺りに本気を見せたら 色々絶賛されて衝撃を与え続けることになります。確実に。(思い込みではありません) このような人はまず他にいませんから、これを分かってもらえる人もいない。。 孤独な存在。 今はそれほどでもありませんが、幼い頃は今以上に「自分=超人(そう表現できる)」のように思えていた。 なぜそのように思えていたと思いますか? 考えてみてください。何も理由なくそのように思うはずない。 繰り返し言います。何も理由なくそのように思うはずない。 「知らない」と思われていることの9割知ってる。 「できるはずない」と思われていることができる。 身近な人が「人間はそうしないとそうならなんだ」と言い張っている、自分はそうしなくてもそうなれる。 そんな↑だとその人にできるところを見せるのが怖くてできない。 自分でも自分が怖くなる。 超人のように思う。 知るはずできるはずないだとか思いそう言う人自身の能力が高くないと、増して「誇張」してそう言う。 (能力の高くない自分自身を人間の基準と見るため) そう言う身近な人の能力が高ければ、自分はこうなっていなかった。 理解してください。 何かできないことがあったり、欠点があったり、短所ばかりだったり、 自信が持てず内気だったりで苦しみ悩むみたいな人は、世の中では有り触れた存在。 そのような人はどこにでもいる。 自分の場合それとは全く違い、その逆です。(できることにより苦しみ悩む感じ) こんな人は見たことも聞いたこともありません。。 自分はそうではないので、そういうのは共感できない。 そしてこの世の中はそういう人を励ますもので溢れていますが、自分はそれで励まされるようなことはありません。 そういう人とは全く違うため、共感できないわけですから。 共感できる人は普通です。励まされるのでまだいいです。 「下手だから見せられない」ではなく、「上手いから見せられない」。 「わからないから言えない」ではなく、「わかるから言えない」ような感じになる。 6才から…みたいに思われていますが、実は3才の時にはすでに (本来の姿からかけ離れるほど極端なことにはならずとも)多少この“やれないフリをする病気?”になっていた。 そんなで「真」の本来の姿は家族にも見せたことがない。(少々本来の自分を隠している程度の人はいくらでもいる) 本当に↑この通り。まさに、この言葉の通り。 信じて、受け入れて、理解してもらえないと、自分は救われない。。 「信じる」ことが、どうしてそんなにも難しいのか? 人に見られていると何もできないわけですが… 1人にしてもらえる(誰にも見られていない場にいさせてもらえる)時間が一応あります。 その時にネットなどがやれており、このページも更新できている。 (確実に自由の身になれている時間は夜中のみ〈夜中のみしか自由の身になれないわけではありまあせん〉) 気づいたらいつのまにかこうなっていたではありません。 自分はそういう何も思うことなく何となく変化を起こすような単純で軽く甘い人間ではない。 そんな人間ならそもそもこうなっていない。 家族と話さなくなった時なんかは完全にそうですが、 きっかけを作った言葉、この状態でずっといることを決定付けることになった言葉がありました。 ある人が言ったとある1つの言葉によるもの。 本当です。そうは見えなかったからといって作り話ということにしないでください。 周り〈他人〉からは見えていなかったもの、今や忘れられていることが色々あります。 ↑「演技をすることが発展」と言いましたが、それは具体的に言うと↓ できることがわかると驚かれるので、できないフリをする→できるところを見られないようにする→ 行動しているところを見られないようにするような感じになる→行動できないと思われる→ 行動すると驚かれるので本格的に行動しないようにする→大人しくしくいたら話せないと思われた→ 話すと本性もわかる驚かれる→話さないようにする→障害者と思われる→話す能力がないなどと思われる→ 最重度知的障害者と思われそれ相応の扱いをされる→それらしくないと驚かれるので、知的障害者のフリをする→ 最重度知的障害者となると、あれこれできるわけない知るわけないと思われる→とにかくできないわからないフリ→ 人間が当然の如くできることができたらそれで仰天させる→人間ではなくなる… こういうように負の連鎖が続いていったようなそういう感じ。 周りの理解がなかったことでどんどん何もできなくなった。 どうして何かしているところ見られないようにするようになったかというと、理由はこれ。 できないというか、そうせざる得ない感じでやろうとすることができない。 わかりにくいがそこがポイント。 脳の作りがどうこうではない。 脳を覗き見ればわかる。 上々の出来栄えなのに、欠品だと思ってそれ相応にどうこうされて、もったいない。 ある程度までを容赦範囲とし、その容赦範囲を越えてしまわないように力を抑えわざとできないと見せかけるようにし続けてきた。 ある程度以上にできないと見せかけるように、ある程度の基準に達しないようにし続けてきた。 物心ついた時点からずっとそうし続けてきた。それが自分の基本。 ありえないようなことだからか、周囲の人達は長年長年見続けていても全く気づかない。 で長年気づかなかったことで今更信じない。 驚かれたり誉められてしまうとある程度以上(容赦範囲越え)だったということがわかり、 撤回させるかの如くもうその誉められたことなどをやらないようにしたり(すると本当に撤回になってくれる)し続けてきた。 誰もこんなことだとはまさか思わない。 どれだけ理解されておらず、どれだけ的外れなことをされ悲惨な想いをし続けてきたことか。 誰もわからない。 誰もわからないから、家族に至ってはしかも単純だから、できない、それはできないということ、本当にできない、低い水準などと思うのみ。 自分の常に持っていた基本をわかっていなかった。 いまだにわかっておらず、いろいろ全く違うことを思っている。 で全く違うことを思っているのに、どうこうしてくる。 でこちらとしては苦しまされるばかり。 家族にはわからない。 …こういうようにし続けることで、まんまと生まれてからこれだけ長い間、 本当に能力の程度を知られることなく(能力がバレることなく)やり過ごせている。 凄いでしょう。 もう(いかなる知人の前でも)話をしていた(常時健常者だった)ころに…あのころの自分に戻ることなどできません。 このままではできない。 今、常時健常者になったとしても日程なんかが色々あって…誰もが困惑する。 ともかくもう非常に戻りにくい環境になってしまっているわけだ…。(健常者の状態=本来の状態) “自分が話すその時”をただただ待ち続けている人がいたりしますが…それではだめなのです。 そんなことを言っている人は何も考えていない。 考えてみればわかります。今の環境で突然元に戻ることなんてできない。 でも自分は一刻も早く昔みたいな常時健常者に戻りたい(現状打破したい)と思っています。 (戻りたいからそう言っています。本当は戻りたくないということはありません。それならこのページはありません) どうしたらいいのか? “自分のことを知らない人(他人)”とならリアルでもなんとか勇気しだいで話せるかもしれない。 自分と話したことが、自分を知ってる人(知人)にバレないと断定できる場合ならば何とか…。 ネットの掲示板で見知らぬ人と話すことはできます。それはできました。 ネットで人と話ができたこと。これは凄いことだった。 そんなで電話で見知らぬ人と話してみることならできそうなのでまずそこから始めてみようと考えた。 次のステップそれは肉声…以下省略 と思っていたが冷静に現実的に考えてみた結果、それができたとしても もはやあまり意味がない可能性大だったのであれだ。重要なことには繋がらない。 自分は現状のままでも密かにネット上でいろいろなことがやれており、生きがいを感じられている。 仕事をすることと、家族を作ること。それは絶対にやらないといけない…。それをせずに人生を終えてしまうわけにはいかない。 ですがそれは本当に夢のような話。 よくよく考えてみると…遠い場所へ連れて行き、長い間放置してもらうくらいのことをしてもらえないとそれはもう限りなく無理に近い。 まず絶対にそんなことはしてもらえない。ある意味何もやれないと(普通と違う常識知らずの人だと)思われているので。 誰も健常者の自分を詳しくは覚えていない。 健常者の時の状態とそうでない時の状態とを同じに見られたりする…。 小5までのことは忘れられていることが多い。 今のイメージが以前のイメージと重複し、どうしていたのか何をしたか?そういうことが忘れ去られていたりする。 人がいてもいろいろ自分でやっていたわけだが。 忘れているからには具体的に言わないと否定される。 “小5まで”が人生のうちの少しという扱いになってしまうとは。。 あのころとは別人のようにも思われる。 「今」年相応の人間として見ても普通と違う常識知らずの人ではありません。 “普通に授業を受けていたのと同じことになるように”勉強したので。詳しくは学習の件↓にて 「密かに外を出歩く」くらいのことなら理論上、勇気しだいでできる。 それができたら凄いことなので良しとするべきか? 成人間近になったら焦って常時健常者に戻ってしまうか…とも思っていたが、 そんなことはなかった… 次は30手前か…なんて思ったりもしたがそういう問題ではない気がする。 何か行動を起こさないと変わらない。 でもさすがに30,40になったら呆れられて状況を変えてくれるかもしれない。 「このままで一生を終える」ということは…さすがに“ない”と思う。 早死にしない限り、それはありえない。 あのころ、もう少し厳しくされていたらこうなってはいなかった気がする。 大きくなれば自然に治ると言われていたが、「そんなわけない」と感じていた。(本当にそう。自然に治るわけはなかった) 早い(根の浅い)うちに何とかしないと取り返しのつかないことになる。 普通に取り返せる可能性があったのは小1の前半くらいまでだった。 今回、こんなに長引くことになるとは自分でも驚き。 皆も驚き。そのうち戻るはずで、そういうことになっていましたから。 社会に出る歳になってもそのまま?などと言えば笑い話になったもの。 本当にそのままで人生台無しへの道をたどることとなってしまおうとは。。 長引けば長引くほど色々あって元に戻りにくくなる。 外を歩けても見知らぬ人と話せても何にもならない。家の人と話すのは“冷静に”考えてみるともうほぼ無理だから。 それは単なる「密かにやっていること」に過ぎない。 どうすれば…… 遠くでなくてもいいので少しずつ、一人暮らしさせてもらえたらそれが現状打破に繋がるかもしれない。 ネットで話せる人と知り合ってその人のところへ行くみたいな展開になれば何とかなるか?(難しいか?) ネットで知り合った人がたまたま徒歩圏内に住んでいて行き来できることになる… みたいなシチュエーションがあったら一時的にだが現状打破している時間を作れる…。 ともかく現状打破する手段はないわけではない。 誰も来れないくらい遠い場所に放置してもらうか、 知人(自分に関わってこられる人達〈家族含む〉)が全滅する(この世から消え去る)ようなことがあれば確実なのだが。。 (極力人のことを特定して誰と言ったり、限定して指し示すことは避けます。知人などというワードを多様する  〈このことを語る上で最大のキーとなるのは「知人」〉) 高齢になればかってにほぼ全滅すると思うが、それまで待ったら自分の人生も残り僅かになる… 全知人と縁を切ってしまってそれで果たして幸福か? 全滅するから…というのもあるが、高齢になればさすがのさすがに色々な感情が込み上げ、 何か大胆なことをしてでもして常時健常者に戻る。 まず“自分”としたことがこんなままで終わるわけはありません。 何というか、そういうもの。そう思ってきた。 訓練等は無意味。 心の問題なので。 確認をとられるとだめ(全てにおいてそう)だというのに、何においても確認をとられないとだめとされるのでどうにもならない。 証拠が残らないように工夫したり、何かしても本当に驚かなくなるような状況を作ってもらうことで可能性が開くことはありえる。 自発的に動いているところを見られても話せないことはあるかもしれないが、逆はない。 普通に「話すこと」ができたらその時は完全に常時健常者になっているはず。 考えてみればわかるはずだが、話すようになったら同時に動けるようにもならないといけない。 そうしないと辻褄が合わない。というか、そうなる。 普通に仕事をして家庭を作ったりすることができたら奇跡だ…なんて言われていたことがあるが、そんなことはない。 自分がこうなったこと自体がある意味奇跡。 こうなったのにはしっかりしたプロセスがあるし、本気で何か手を打てば普通にやっていけるようになることが可能なわけです。 もうとっくに「人生失敗」になっているが、だからといってもうどうでもいいとも思わない。 成人したらもうオ○サンです。終わり。仕事も何もできない人でした。みたいな無残なことを言われましたが(ネット上の特殊な人に)、 実際には年齢の数字が増したからといってどうってことないし、人生で言うと先は長い。 諦めなければ大概のことはやれるし、今の世の中のシステムや常識に束縛されていなくてもいい気がする。 1年違うだけでも見られ方が大きく異なってくる。 時間が経過したことが、それが影響してだめになってしまうことがあったり、 運命が変わったりしてしまうようなことがあったら、残念でたまらない。 これからも時間が経過していくのでそういう見方があると絶望的でしかない。未来は暗い。 若いと良い→即ち歳をとるとだめ→即ち未来は暗い 14から今を今だと思わない感覚でいるので、「今」の年齢に対してどうこう言われたり、 子供だ大人だ若い、年寄りだの言われてもピンと来ない。14からは常にそうだった。 「何歳から見て←何歳は○○」という認識も昔から持っていなかった(持ったことがない)のでそう言われてもピンときません。 年齢は人が作ったただの数字。 生年月日などとは違い、頻繁に変化する「変数」。 何にしろすぐに今は今ではなくなって本当の年寄りになるし、子供でもあった。 今には過去がいくらでも混じっています。過去があって今がある。今は過去でできている。 “少しずつできるようになろう”みたいなことも散々言われてきましたが、そういうものではない。 ある瞬間から突然変わる(元に戻る)もの。 最初は園で健常者の状態になったりそうでない状態になったりを繰り返していたわけです。 (常時健常者の状態に戻れた時の解放感は何度か味わっている) その“状態が変わる時”は“突然”でした。(考えてみればわかるがそういうもの) “本来”はそういうものですが… ただ、これだけしぶとくこの状態が続いてしまうと色々あるし突然という風にはいかなくなってきてしまっている。 健常者ではない状態の時が健常者の時のような状態に近づく… みたいな中途半端なことはない。不都合が生じるので。だからそういう意味での訓練は意味なし。 スイッチで切り替わる感じ。 今でも誰にも見られていない時は健常者の状態なわけです。ある意味突然状態が切り替わっています。 切り替えを繰り返しながらうまくやっていくみたいなことはできる可能性がありますが、 中途半端な状態を経由して少しずつ健常者に近づける(良くなる傾向にする)…みたいなことはできない。 自ら何かすることは何もしない状態。 簡潔に言います。「健常者ではない状態の時を、訓練により健常者の時のような状態に近づける」ということは現状では不可。 「切り替えを繰り返しながらうまくやっていく」ことは可。 言っておきますが健常者の状態から障害者の状態になっても内面は変わりません。 心や記憶や人格に変化はありません。 多重人格ではありません。 でもその2つの状態は全く違います。 同じもの・同じになるものとして見ることはおかしい。 分けて(別人のようなものとして)見るもの。 実際多重人格ではないが、「例え」として多重人格というのは非常に良い。 多重人格みたいなことを言えば、ある程度わかってもらえる。 多重人格的なことをわかっている人は1人もいないですが、それはあまりに酷い。 何せそれが自分の現状の基本中の基本要素。 「同じ人間」だと思われてしまうことで低レベルだと思われできないやれないやらないおかしいなどと思われ馬鹿にされ誤解される。 おまけに不愉快。良いことなし。 人格・心・記憶なんかに変化がなくても、別人。 役者が役を演じている時は(人格が変わっているわけではないが)役の人(別人)になりきっている(別人になっている)のと同じ感じ。 ある程度「別人」として見るのが良い。 そうした方が自分のことをわかってもらえているに近い。 …しかし厄介なことになかなかそうは思ってもらえない。 このような人はほかにいないので、正しく表現できる言葉はない。 正しいとは言えないが、「多重人格」というのが今生きている凡人達にすぐにマシな程度自分を理解させられるであろう数少ない表現。 場面に応じて違う(多重人格的)なことは言うまでもなく、説明する上で必須。 だが誰もわかっていないのでそのような説明がされることはない。 知人が見守っている場面と、そうでない場面とは別。 ほぼ別人として見ることこそが基本。重要。 そのことを多少知っている人達も、あくまで「多少」で、ほぼ別人とまでは全く思っていないからなのか、それを広めようとしない。 これだから的外れなことまみれで悲惨。 自分は言わば「故意多重人格」。←何気に良い表現。 「場面に応じて違う」ことが最大のポイント。それが根からの基本。 だが家族が本来を見ないようになる(本来でない方即ち片方しか見なくなる)と、「場面問わず常に同じ」のように思うようになり それにより誰からも"常に同じ"のように見てこられるようになってしまった。 実際は家族からしてみたら常に同じというだけ。 家族に間違われると悲惨。 皆家族の言うことを鵜呑みにしてそれを自身の認識とする。 で皆何の気兼ねもなく「家族がさせようとしていることに基づいて」動かそうとしてくるわけ。 恐ろしい。 知人の見ている、知人の前での自分ではない自分と、知人の見ていない自分は別物。 だから、知人は自分のことを何も知っていない。 知人の前での自分を知ったところで全然自分を知ったことにはなっていないわけです。 同じではない。「何でも」できる。 それを分かってもらえないことも大問題。 別人だということが受け入れられれば動かされ方がましになるだろう。 だが知人はそれはまず受け入れそうにないようなこと。 家族らは両者を同じ人間として(同一視して)見ているところが致命的。 本来を見せたらいきなり健常者。 だからできないわけ。 こういうことを言ってるわけ。わかってください。 訓練することで少しずつ健常者みたくなっていくではない。 そういうものではない。 貴方がこちらの立場だったら、いきなりではなく段階を踏んで健常者になっていけますか? 段階を踏んでいくなどということができますか? 意味わからないことを言われてると思いませんか? 自分も同じ。意味わからないことを言われているわけ。 「少しずつやれるようになる」とかない。 それは意味がわからないこと。 「やるか」「やらないか」なわけ。その間とは何ですか? 「やる」ということは、「障害者の演技をやめて“やる気”で取り組む」ということ。 だから、「やる」のに障害者でいるとかは、無理。 逆に無理。 皆、あまりにもわかっていない。 何がどういうことかわかっていない。 自分ができ“すぎ”ることも全くわかっていない。 できるできないとかではなくて、やらない。 できないからやれない、だからできるように特訓とか的外れ。 知人らは自分に会っていないと言っていいい。 多重人格の人に会った際、その時に表に出ていなかった人格の者には会っていないのと同じ。 自分には会っていない。 だが誰もそのことに気づいてもいない。。 会っているものと思っている。悲しい。 どうしても、少しずつ…みたいなことを言われてしまうと思いますが、それだと複雑なことにもなるし逆に大変。 実際は“普通と違う人ではない”ということを改めて言いたかった。 「手助けしてくれる人がいなくなったら終わり」だとか思われていますが、そうではない。 逆にそういう人がいるからだめなんです。 無能だったらすぐに元の状態に戻る(治る)。 こうしたらどうなるか?今後はどうなるのか?と先のことや状況を考えて(思考が働いて)しまうからこそ、 元に戻れなくなり、環境の変化に応じて良くも悪くも変わりながらより重度化した感じ。 認知症になって無能に(本当の障害者のように)なったとしたら、傍から見ると逆に健常者に見えるようになる可能性がある。 現状打破法のまとめは後に記載。 重度化というのはそう言っても実際(本来)は何も変わらない。本来とそれとは無関係。 家族らに嫌なことを強引にされ…続く 家族に迷惑をかけているとは言っても、迷惑をかけるような行動をとるようなことは一切しません。 現状で迷惑を最小限に抑えるためにはそうするべきだし、それ以前にそもそも「「何か行動をとるようなことはできない」」わけです。 こちらとしては、かってに生きるので殺すようなことをしてくれて結構ですという感じ。 迷惑なだけなら消えるべき。 何も消費しない生物になれれば迷惑にならない。 消費しないと生きられないので、迷惑になる。生き物は迷惑をかけずに生きることができない。 知人に何かしてほしいと思うことはほぼありません。 放っておいてくれたらどれだけいいか?とそう思うのみ。 本当に色々とやれないフリをせざるを得ない雰囲気だった。 わかりませんか? できないだろうと思われて、そう言われていたらできません。 例えば、病気ではないのに入院させられたら病気のフリをせざるを得なくなってしまいませんか? 障害者ではないのに障害者手帳を持たされ、養護学校に入れられたら障害者のフリをせざるを得なくなってしまいませんか? 怪我がすでに完治しているのに誰かが見舞いに来たらその人の前では痛いフリをせざるを得なくなってしまいませんか? 自分は何というか、ハマってしまった状態。 常識知らずの無知だと思われている限り、できるはずない・わかるはずないという持論を持たれている限り… いや「そうでなくても」驚かれることは免れられない。 おもちゃの人形が実は動けて話せたとする。 だが人が見ていたら動けない話せない何もできないでしょう。 なぜなら人は「人形は動かないもの」だと認識しているから。 人を仰天させて騒ぎを起こしてしまう。 自分はそれと同じ。 そうも例えられる。 粒子が波としての姿を人に見せられないのとも同じ。 自分はおもちゃとは違い、人を楽しませるような役割はない。 邪魔者でしかなく、人から責められる。 何もしていないのに、何もしていないそのことを責められる。 知人はかって世話してかってに大変な思いをしている。 自分の意志で何もできない状態なため、勉強がやれていな「かった」こと… 高校以降は障害者として扱われるようになってしまったこと… それが要因し、話してしまうと誰もが困惑するような状況になってしまっていたので、 話したいと思っていつつも“話そうとすること”すらできなかった。 …過去に出会った人達と心や空想や夢の中で…ではなく、本当に話しができる日が訪れることを夢見ています。 その人達側からすると、逆に自分と話しができる日が来ることを夢見ていることでしょう。 生きているうちに、互いにその夢を実現させされる日が来ることを願っている。 恩もあるし、このまま終わりでいいわけがない。 何も言わなくとも、頭の中は言葉のオンパレード。心の中は秘密の空間。 できないフリをする、場や人に応じて自分を変える…そういう演じる傾向がとにかく常にあった。 あの人(△さん)は自分のことをこう思っているので、その人の前ではこういう自分でいないといけない… あの人(□さん)は△さんとは違って自分のことをこう思っているので、その人の前ではこういう自分でいないといけない… △さんと□さん、両方に見られている場面… まずい!なんとか2人が困惑しないようにカモフラージュしないと。。 ↑こういうケースに何度も巡り会った。 ヒヤヒヤして大変。 話せる人と話しているところを、話せない人に見られそうになったりするともう、赤面。 自分の思うようには行動できないので、あれは悪かった…だからなのか…みたいに思ったことがいくつもある。 自分で自分の心を痛めた。 何もできなくないし、どこも悪くない。 実際は全て「故意」。 家族らは毎日見続けているにも関わらず、故意か否かの区別も全くついていない。 何もかもが故意にも関わらず、家族らは「何もかもが故意ではない」と思っている。 そこがまた酷く悲惨。 そう見えるからにはそういうことだ、と直感で認識し、そう捉えてこられる。 できなくなさすぎ、「できない」というのが信じられない。 …常時自分の意志で行動できていたあのころ(入学前)は自由だった。 学校のような場で自らの意志で行動でき、話ができていたあのころのあそこでの経験は貴重…。 こんな状況下でも… 自分なりにできることを見つけて色々やってきたから今があるわけで… あからさまに無駄な時間は過ごしていません。


                 


   学習の件   
自分は(誰もよくわかっていないが)“普通に授業を受けていたのと同じことになるように”勉強しました。 中1から数年がかりで自主的に極秘で行った。 義務教育の内容なんかは当時の時点で完璧に把握(クリア)済み。 何も知識ないと思って、それ相応に扱ったり、配慮したりするのは大きな間違いです。 誰にとっても何もいいことはありません。 把握していることを前提として見てください。 ちなみに、今それを「完璧」に把握しているかといったら、それはない。 でもそれは「皆」そう。時が経てばある程度忘れる。 普通でない特殊な人(特別な扱いを受ける人〈特に障害者〉)などには絶対になりたくないと思っていました。 (障害者には悪いですが、普通に過ごせるに越したことはないので) だからそうならないようにすると心に誓っていました(←誰も全くわかっていない)。そのような人になっているわけがありません。 いや健常者ではない状態の時はあれですが、“健常者の時”は普通。 普通のわけないだとか言う人がいそうですが、何を持ってそう言うのでしょう? 大人の普通とは何ですか?子供の普通とは違いますか? 昔とは違い、今は色々なことが障害と定義付けられ、一見何ともなくても少し特徴があるとそれを障害と見なして 障害者の認定を受けさせる風潮で、障害者のイメージが変わってきていますが… 個人的には思うに、会話ができて覚えることができればその人は障害者ではないと思います。 個性があり、人はそれぞれ違います。自分とは違います。 こうあるべきではないなどと思うことがあります。 (↑↓ここで言っている「自分」とは筆者のことを指しているのではなく全ての人間を指しています。変な様に誤解しないでください) 突き詰めたら自分以外の全ての人が障害者になってしまいます。 “自分”というのは自分が正しいと思うことをしているので基本、自分では自分を悪くは思いません。 皆そうです。 だが他人から見ると悪いことだらけだったりします。 必ず良くないと思う点があります。 (何もできない状態だったことにより)学校では普通に授業を受けていないといえばいないわけですが、 “そういう普通に授業を受け続けていない人は即ちどうしたって人並み以下だ”と思う人がいる。本当にそうですか? そう言ったら古い年代の人の多くは今となっては人並み以下。 “人に教わることをしないと「確実」にわからない”“学歴が全てだ”みたいに思う人もいる。耳で聞くことと読むことがどう違う? 普通のことを経験していない特殊な人にはなります。 だからその特殊な人にならないように誰もが経験する道を経験していくことを望んでいた。 そして“普通に授業を受けたのと同じことになるように”こだわって勉強したわけです。 後々同じことになるようにしたわけです。 生きる上で重要なことか非かは関係なし。 “皆が覚えたことを覚える”という形式。 皆がやっていたようにやる。本来自分が通るはずだった道を通ったことにする。 そうしないと許せませんから。 なので普通に授業を受け勉強していたものと思っていいわけです。 学校は教科書に基づいて授業を行っています。それなりにそうすることができます。 文句はありますか?無知だという証拠はありますか? もし無能だとしたら、自分でそのように感じると思いませんか? 自分の思うことが絶対ではありません。皆しもが同じではありません。あなたの考えは独特かもしれません。 何もしてなかった、普通の生き方をしてない、経験がない、特別だとか、そんな風に思わなくて良い。 通るはずだった道を通り、本来なら今頃自分は遠に別の家族の元で暮らしていたはずです。 それがそれが、儚くもまさかのこんなことになっている。 引き込もっていたこともないですし、外の世界も普通に知っています。 “普通に授業を受けていたのと同じことになるように”の意味、わかりませんか? 「学校で学ぶこと」を学校で学ぶ通りにほぼもれなく(←「ほぼもれなく」ですから科目全て)学んでいます。 こう言ってもこれは「一般的に誰もしないこと」だから信頼されない。 しかし何もできない状態だったとはいえよ、ちゃんとその気があれば、授業中の皆と同じ時に密かに学ぶことができていた。 ノートに書いたりしてもしなくてもほぼ変わらない。少なくとも自分はそう。 自らやってみないと、動的に何かしてみないと理解できないようなタイプではない。 悔しくもその気になるのが遅かった。それができたのは僅な期間のみ。 「何もできない=その場で勉強不能」とはならない。 「何もできない状態だったことにより」というよりか 「何もできない状況で、何もしなくとも問題ないことになっていたことにより」が正しい。 学校なんかで人から教わることをしないと永遠に知識は幼児のまま。 ↑凡人脳。常識に洗脳されている。 あなたはそうだとしても、自分は違う。 本来の状態なら何でもやれる。 できる場面ではできることは事実。(違いますか??) ただの仮病です。いつまでも続けざるを得なくなってしまった仮病。 そう表現するとわかりやすい。 実際には「できない、知らない、やれない、わからない」みたいなことは自分にはありません。(現時点でありません)本当です。 もう1度言いますが、できない知らないやれないわからない←そういうことは自分にはない。 それを視野に入れ考慮されるのは無意味で不愉快どころか、それが大きな壁となる。 教えられる側の立場でいることはもう卒業してると思います。 (世の中の情報量は無限大ですから、当然知らないことが一切ないという意味ではない。全てを知る人など存在しない) 教えられるのではなくて、教えさせるべきなことだらけですから。 苦手なこととか、ほぼない。信じてください。わかってください。 何ができる何が得意とかない。 基本、何でも得意。 知人に何か1つ、あることを得意だと認識されると、それを推し進めるようなことを言われたりするがそれも間違い。 それだけではない。 何もできないからやれることを探すのが大変ではなくて、何でもできるからやることを選ぶのが大変。 誰もわかっていないが、それが真実。 なのに何もできないと思われて何もさせられないという。 何もわからず、いまだ教えられることをし続けていないといけない未熟者だと思い込まれている。 誰が普通に年相応の人間として見ることをしてはいけないと言った?配慮しろと言った? 誰がそうすることが的確だと言った?正しいと言った?そうしてほしいと言った? 誰が低い、弱い、悪い人間だと言った?できないわからないと言った? こちらの望むこと、真実とは逆のことをしてひたすら嫌がらせたい? できないと思われているから、わざとできない素振りをしているとどれだけ言った? できないと思っている家族らがいなければ、素振りなどしないから自分で生きれ障害者にならない。 「本当にできない」わけではなく、そういう人とは全く違う。 「わざと」「演技」「素振り」「見せかけ」「騙し」 何十回言えばわかる? 日本語がわからない? 曲者。その人自身がその人の思う障害者にあたる。 わざとそうしているわけ。 できるようになれるもなれないも何もない。 わざとなのに、できるようになるも何もない。 何もわかっていないのにどうこうしてこられ一溜まりもない。 できるできない治る治らないだとか、そもそもそういう話ではない。 全部演技でそれ以外に何もないと言っている。 かってに人間の一般的なこと、人間がこれまで定めたことの何かに当てはめてどうこうしてこられても全て的外れで何も良いことない。 どうしても自分は知らないから自分では的外れと思い込んでるみたく思う。 知っているからこう言ってる。 知識があって真相をわかっているからこう思っている。 「知らないわかっていない」なら、知人らを信じている。 無知だった赤子に近いころは信じていたわけ。 いろいろ思っていることが逆。 …人は、どうしようもない。 演技中のやつは自分とは関係ない。 そのやつを見た感じでどうこう判断するのはおかしいこと。 「できないことがない。何でも健常者よりもできる。できないと思われているからそう見せかけざるを得ない。」それをわかればいい。 今更受け入れるのは難しいのか知人は受け入なくて悲惨。 あまりにもできる→知人に思われている姿と大きく違う→できないように見せかけずにいる即ちできる姿を見せにくい


                 


   病気の件   
注意!「過去にその病気であったことがあるかもしれない」、あるいは「仮病でその病気を装っている」 ということに限りなく近く、あからさまにそうだというわけではありません。 (そのことをわかっていなかったら、的外れなことを思われ、的外れなことを言われ、的外れなことをされるだけになる) 同じ病気とされる(共通点のある)人はいくらでもいますが、このような状況化に至るまで「進展」した人はどこを探しても見つからない。 “場面”ではなくなったものかと思われていますが、いまだ人や場に応じて多少状態を変えているのでそれがなくなってはいない。 各々の知人は別の場面でのことを知らないので、必然的にそう思われる。知られてはならない。 いや、よくよく思えばそれは全くなくなって(薄れて)いない。 今や「全ての知人」の前で例の状態でいることにし続ける状況下になりましたが、知人の見ていない場面ではそうではない(ごく普通)なわけです。 「知人が見ている場面」と「知人が見ていない場面」とでキッパリ切り替わっている。 当初「学校の知人等が見ている場面」と「その他の場面」とで切り替わっていたのが、 (前者に学校以外の知人全てが加わり)そう変わった感じ。 この病気の人は皆、話せないことで苦しんだり大変な想いをしたりしているようですが、 自分の場合ほとんどそういうことはなし。 心中では昔から過剰なほど喋っているので、それで想いを発散できているからなのか? これが当たり前のようになっているからなのか? いやそもそも何もできない(よって見学になる)ほど酷かったからか? 「話そうとすること」ができないためか? 度を越してしまったためか? (もちろん嫌な想いをすることがないわけではない) また、「自身はだめだ」と思い込み、自信が持てないという人が多いようですが、自分の場合、そのまったく逆。 変わったケース。 病気というのは何のことか?という問いに答えますと↓ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B4%E9%9D%A2%E7%B7%98%E9%BB%99%E7%97%87 6歳の時に実際に(演技の見た目を知る人の話をもとに)認定させれ、 長いこと言われ続けてきましたが、症状を見ると、確かにまるで自分のことのよう。 自分で「これはある?」とも思える病気はこれしかありません。 (ネット上の皆がかってな解釈により思い描く自分は狂人のような姿だと思いいますが、違うと思います) 注意:ある意味傾向の異なる点・度を越している点もいくつかあります。(ただ者ではないわけです) ↓この点を理解してもらえないと的外れなことを言われる一方になる。 ①話そうとしても話せない…というか、「自分はこういうものだということになってしまっている」ことなどにより、  話したいながらそもそも「話そうとすることが」できない。  それができる場面で話そうとすると不安で躊躇するので、「話せない」という気持ちもわからなくはない。  話そうとすることができる場面でないとそもそも話せない。  動くことも同様で、動こうとすることができる場面でないと動けない。(緘動と言えるかどうか微妙)  言ってしまうと「話そうとすることができない場面」というのは、  単なる「極端に、話すこと=恐ろしいこと」として形作られてしまった場面とも見て取れる。  ハードルが高すぎて絶対無理のような場面。(絶対無理にならないシチュエーションを作ることは可能。そうしないといけない)  基本的には「こういう人だと思われているから、こう思っているその人の前では思われている姿のままでいないといけない」 ②人(知人の)前で意志的に動くことを「ほぼ全く」(したいが)してはならない状況なのでそもそもほぼ何もできない。  即ち「家から出て何かする」のが容易でない。 ③自己表現、意思表示をすることを「ほぼ全く」(したいが)してはならない状況なので完全にコミュニケーション不能。 ④自信がないということはない。  失敗すると思うこともない。  (何せ、やればでき、失敗しない。失敗しても1回で修正できる) ⑤世界中に経験者0で誰にもわからないようなことで苦しむものの、  皆が思うようなことであからさまに苦しんできてはいない。(人生失敗になってしまったが。。)  何せ「自らは何もしなくていい」し。  何もしなくていい…そんな自分を羨ましく思う人は多いのか?少ないのか?  特別に扱ってもらえる、やらなくてもいいとなれば苦しむことはなくなる。  やれないということにし、そうさせる。この世の誰もやっていない最強の生き方。  唯一それをやった自分はそこから抜け出し難くなり、とんでもないことになった。  自分は抜け出したいですが、抜け出さなくていいと思う人にはおすすめ。  自分の場合あえてそうさせたというか、そうなってしまったわけですが。  自分が1番嫌だったのは「特別扱い」されること。  授業に出る意味なしとみられて学校を早退させられたり、休ませられたり、席を固定されたり、ほかの人と違う呼び方をされたり…。  何も言えないのでそれを阻止したり色々自分の良いようにしてもらうことはできない。例えどんなことでも絶対に。  (何をどう思ってか↑その呼ばれ方が気になる人が多いようなので言っておきますが、   出席の時なんかに皆フルネームなのに1人だけあだ名で呼ばれたりしていたというだけのことです。   優遇されていた感じで、悪気があってそう言っていた感じではありません。全くもってそうではありません。先生ですし) ⑥(ほとんど)苛めに遭ったことはない。(ほとんど←)  そういう雰囲気ではない+そういう雰囲気にさせなかったからか?  このことは信じてもらえないことが多い。  「苛める価値すらないほどのクズだった」と考えらる模様。  元クラスメイトに聞かないと断定できないが、本当にそうなのか?  「友達ができない」「味方がいない」ということもなかった。  身近な人達は単純に「運がいい」としか捉えませんが、「それだけ」ではない。それは言える。  ただ「ネット」だと、ただただ否定批判非難侮辱され続ける身分。  「暖かいコメントを頂く」などということはあまりにも考えられません。  コメントは見事なまでに100回中100回悪口です。  思いきり誤解されて貶されるだけ。味方0。  リアルとネットとが皆とは逆。  (自分がいたのは特別学級ではありません。特別学級なら障害者とは無縁ではないし、完全に特別扱いされていたことになります。   その時点で障害者の道へいっていたことになります。つまり↓で言うことが嘘になります。   嘘つきだと思われているので、それが嘘で、特別学級もありえると認識される?) http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/siberia/1507150477/ ↑自分からすると、数あるこの類の掲示板にいる当事者の人達は「全員軽度」です。 1人として自分より上に君臨する悲惨な人はいない。 軽度ですから、安心してほしい。 ここは当事者の人に見てほしいページでもある。 安心感を得られるかもしれないし、克服・改善を目指す上でのヒントになることが盛りだくさんに書かれていると思う。 同類のような人を見ると、自分が良い意味・悲惨な意味でこの上ない高みにいることがよくわかる。 やはりほかにいない衝撃の人間。 ほかにいないなどと言うと、同類の人の存在を知らない無知だとか思われる。本当いろいろ派手に不愉快。 酷い誤解。本当わかっていない。 今や自分を信じて何かすることができない、 できる範囲でしてもあまり意味がないような状況になってしまった自分はもう… 克服の難しさが半端ない。 自分の場合、絶対無理の壁ができています。他の人のようにはいかない。 現に他の人のようにいっていない。 改善していかない人などいない。いくらなんでももう見切りをつけられていい。 自分で分かる。思った通りになっています。 状況的に絶対無理なほど厳しいことは文字通り無理なので、今はそこを突破することはできない。 突破せずに現状打破することは可能なので、そうすることになるが、色々と難しい。 大きな決心もいる。 だめなのはだめな要因(知人の件)があるからです。 自分の場合、その要因をなくさないとどうもできない。 だからいつまでもそのままなわけです。 自分は(複数の意味で)他にどこにもいない強者です。 自分の場合、話さないでいたら言葉も何も分からない知的障害者とされ、 知的障害者として生活させられるようになってしまったので… 残念ながら「話しても何も変わらない」ということもない。 まず話したら障害者ではなくなって障害者の居場所には場違いでいれなくなる。 自分をサポートする人達も突然サポートする必要がなくなって皆困惑。 サービス、契約、予定、今後の生活…どうなってしまう?! 笑えやしない。 このままではダメ… 自分の場合、話したらその先に待っているのはやはり、健常者として自由を手にした今とは全く違う光輝く世界。 話すことは物凄く大きなこと。 どう考えても重要性超絶大。 だから重みがあって、色々一歩を踏み切るのが厳しい。 しかも本当なら恥だったり、害だったり、悪いと思うことを色々させられています。 そういうことを自ら意思で続けるのは無理です。 考えてみればわかるが話したら(常時本来になったら)最後、今のままではいれなくなる。 色々不満を変えさせる。 すると今の生活は破滅して自分の人生に「革命」を起こすことになる。 話すことは物凄く大きな重大なこと。 以前は家以外では本来を見せないようにしており、本来の時も多少本来を隠しながらやっていたわけだ。 その“以前の感覚”で多少本来(力や意思など)を隠しながら話しつつ本来の状態を見せるというのもあり… かとそう思うが、それがおそらく、もう今だと通用しない。 以前とは違い、今は大人ですから、そうすると家では人生のことなどとてつもなく重要なことをあれこれ問われたりするだろう。 以前の感覚でいる場合、そういう質問に答えるのはNG。 小学校終盤にこうなったわけですが、もし何もきっかけになってしまうことがなく、家で本来のままでいたとしても、 遅くとも中学校の後半辺りでマズいことになっていた可能性が高い。(その辺りでそういう重要なことを問われる) だからたまたまとはいえ、あのタイミングでこうなるべくしてなったのではないかと思えたりする… その以前よりももっと隠して、まれに一言喋ったりする的な感じにするなら、ある日突然生活が一変するのを避けられる。 がそれもそれで大恥。 中途半端な変なことを“しすぎ”で、無理。 そういうことをした場合、「やれた」ではなくて「やった」。分かりますか? 家以外では何もできないのに進路などに関してどうこう言われても困る。 普通の人が進む道でないと納得いかないし。 家でも変な流れができたり、変なことを思われたりするようになってしまってもいる。 やはり入学前までの常時本来のノリか、それ以上に本来を見せることを解禁しないと(大革命を起こさないと)いけない。 結局そうなる。 人に「話したりしないそういう人」だと思われて、「そういう人としてやりくりする流れ」が定着してしまうと、 もう何か度を越してその人のいる場面ではそもそもそういうことを(話したり)「しようとすることが」できなくなる。 だから練習や訓練でどうなるわけでもなくて、どうしようもない。 もう成長したので、これから環境リセット後にそうなるようなことはないまずないですが、 現状、身近なところに、過去にそういう人だと思われてしまった人がいる。 その人から離れることができれば、もうその時点でこの問題は終わるのですが、離れさせてもらうことができない。 だから、自分はもう終わり。 言っておきますが「できない」と「やろう(しよう)とすることができない」は全く違う。 貴方らは「コイツ↑何を言ってるんだ」とか思い、馬鹿にしたり嫌がったりするのかと思いますが、その前に聞いてください。 「〈できない〉を全て〈やろうとすることができない〉ということにしている」ではない。 「できない」もあって、それとこれとは全く別。 そのことが誰もわからないから、自分に対して適切なことが誰もできない。 操る人を排除して自分で動くしかない。 前者ならどういうあれでもまあできるので、できると言ってもいい。 後者があるから、だから「ずっと」このあり様。 それを考慮せず(その人の思うことに基づいて)ずっと同じようなことをしていたら、ずっとそのまま。 こんなにずっとなのはおかしいと思いませんか? それがあるのが固有の特徴。 後者を排除すれば、それでもう良くなる。 わからないでしょう。だから知人(操る人)も排除となる。 会話してコミュニケーションする、集団の中で皆と同じように行動する、年齢に伴い進級していき社会に出てどうこう… そういうことは普通、絶対できないといけないこと、できないと困ること、できないと生きていけないこと、 生きるために何としてでもやり抜かなければならないことだ!どうしよう…という風になるもの。(人間に生まれたからには) しかし自分の場合、そういうことはなく、悪いが何もしなくても問題なかったので、 そういうことをできるようにすることが重要ではなかった。 本当に信じられない、予想だにしないような人間でしょう。 誰もまともに助言できない。 自分級の人は存在しないので、他の人の話を聞いてもさほど気持ちが安らぐようなことはない。。 稀少な普通でない人間。 ただの稀ではなく、稀の中の稀。 でもそれはこの上なく凄い(ある意味面白い)ネタを持っているということでもある。 普通に生きて普通に死んでも何も面白くない。 自分はもう、計り知れないほど面白み(特権)のある人間。 (↑これはほかの人が言っていたことだが、自分の口から言うと非難されそう) のはずだが、あまりにも普通でなさすぎて、そもそも信じてもらえない。 度を越してしまうとその特権は儚くもないようなものになってしまう。。 自分ほどの人は本当に自分ただ1人。ですが、そのことに対して恐ろしく感じたことは…ない。 別の(これとは無関係の)ことで自分だけじゃ?と思いそう感じたようなことは何度もありますが、このことに関してはない。 それがどうしてかというと、何というか「できない」ではなくて「やろうとすることがそもそもできない」だから。 できない人ではないですから、できない人とは思わない。 本当はできないことのない普通の人。 これに関しては異常だという認識はない。 家族は当初から「自分と同じような人はたくさんいる」と認識しており(同じ病名の人は皆同じと認識していたため)、 そういう様に言い聞かされていました。(そして必ずある程度成長したら治ると言われていた) 当初のころでは(今よりは軽度だったため)、自分くらいの感じの人も本当にほかにいたかもしれない。 でも見たこともないし家族以外の人の口からそのようなことは聞いたこともなかったので、さほど信頼できる感じではなかった。 でも↑の理由により当初から恐ろしくは感じなかった。 そう感じなかったこととそれとは無関係。 この病気の人は自分のことが理解できるかといったら、そんなこともない。 どうあれ「人はそれぞれ違う」し、こういう状況下に置かれるまでになった人はいない。 誰もこのようなことは経験していないですから。 誰も共感しない。 共感しないと「…?こいつ何?怪しい。見て見ぬふり…」となる。 共感できないようなことというのは何もわからない。 自分がどうなのか何なのか本当なのか?わかる人が本当にいない。 共感する人がいない、即ち理解できる人がいない。 皆、自分に対してどうも思えないし何とも言えない。 常識外の存在、ほかに例を見ない存在、現時点で人間が定めたことに当てはまらない存在というのはどうにもならない。 自分のようなこういう存在というのは、どうしようもない存在。 悲惨な者。 皆、共感し合えて羨ましい。 自分と同様な人は誰一人いない。 即ち理解してもらえる人、共感してもらえる人が本当にいない。 自分はまさしく「家が学校」になった感じ。 わかりますか?耐えられますか? 学校の場合、転校(クラスをリセット)することにより現状打破できたりする。 自分も学校が学校であった時は、それでいけそうであった。 だが今や家が学校になったこの現状では、家(家族)をリセットしないとけない感じ。 学校から抜ける(転校する)のを阻止しようとする人はいないが、家族から抜けるのはどうあれその家族に全力で阻止しようとしてこられる。 それだから、もう終わりと言っていいほど現状打破は難しい。 人に思われている自分を、その人の前で(空気を読んで)演じ、 怖くてその演じている状態をやめることができない…(キャラを守り続けざるを得ない感じ) この現象に名前はないものか? ないなら今自分で命名する。 他人に思われた人に成る…「他思人成症(たしじんせいしょう)」 自分は正確に言うとそれなんです。(物心ついた時点から) 高度なので、並大抵の人は上手くできないだろう。 その人を通じて別の人に情報がいくことなどなども考慮しなければならない。 無能になったらできなくなって治る。 養護学校や障害者施設でコミュニケーションができない人達の中に 1人会話ができている利用者の人がいたりすることがあるが、その人は凄く度胸あると思う。 他思人成症の自分から見るとつくづくそう思う。 場違いな感じ…空気読まないと…とそうならず、ありのままでいるわけだ。 皆ボケている老人施設の中にいるただ1人のボケていない老人などを見てもつくづく思う。 度胸あると。 自分ならボケている素振りをすることを考える。 そうしないと浮きますから。 同じようなことを思う人がもしいたとしても、そういう人はそういう場にはまず行かない。 自分は行かせられたら行かされてしまう。 「行かない」と思ったところで行かないようにはできない。 行かせる人はある意味良いが行かせられる(動かされる)側は苦しむことになりいろいろ悲惨。 馬鹿だと笑いましたか? 一般的に誰もするようなことではない(=良くない変なこと馬鹿げたこと〈と誰しもが認識し受け入れられない〉)ですからね。 名前を付けることは割合重要です。名前を付けることでそれが存在することになる。 病気という言葉がなければ病気はない。その言葉があるから病気がある。それと同じ。 ↓の方まで読めばわかるが、自分はある意味ではすでに克服しています。 (知人は知るよしもない〈こう言っても疑問でしかないだろう〉)どうして(ある意味)克服できたかを説明。 まず自分は子供でいたいという想いを強く持っており、もう何か今以上の年齢にはならないとし(実際そんなことはできないが)、 それ以上先のことを現実的に考えることはしないようにしていた。 年齢が上がってしまっても思いがけずその年齢に順応し、常に今以上には…という想いがあった。 20前後でそれがようやく薄れてきて、先のことを考えるようになってきた。 それによって現状打破を「現実的に」考えるようになり、その結果、 「他人の前でなら本来でいても平気、何も問題ない」ということにはっきりと気付いた。 それに気付いたことが鍵だった。 気持ちが本気になって良くなった (今の生活に影響を及ぼさないような場面でなら〈他人の前でなら〉本来でいれそうになった)という感じ。 根本的に言うと治った理由は「気持ちに変化が起こった」それだけ。 これに関しては自分もそういう、ありきたりな理由。 「克服を現実的に考えて、平気だということをはっきり認識する」「平気でなけれぱ平気になれる状況を作る」それが鍵。 自分は本来は健常者なので…健常者といえば健常者ですが、病人といえば病人。重病人。 自発的に何もできないその状態でできること、それは頭で何かを考えることくらい。 自サイトで公開している様々な構想、空想、妄想などは… そういう状態の時に考えたもの。 親に障害者と関わる人生を歩ませてしまい、罪深さを感じる。 思えば思うほどそれを感じる。 あの自分が、あの家庭が、こんなことに。 障害者の世界へ足を踏み入れさせられた時の気持ち…わかりますか? この道へ行くのを嫌がる人はほかにもいると思います。うちの親はそういう人ではなかった。 そのことは小2の時点でわかっていた。 “小学校を卒業する時”がタイムリミットだったはず。 そこを過ぎてしまったら人生に支障を来す…。(実際に言われていたこと) 過ぎたので、良い人生ではなくなってしまった。。 このことに関して誰も何も触れず、何事もなかったかのように過ごしているが、“その次点”である意味、 自分はこの症状(業?)に負けてしまった。(自分のために尽くしていた人達も、残念) 逆に悪化して中学生になってしまいました。 願いも思いも届きませんでした…そんなでした、無念。のはず。 いざそうなったらその時にはいろいろ忘れていて周りの人は言うことが変わっている。…おかしい。 理解させられず、されるがままにされ、(身体が)健康体にも関わらず、○○けにされてしまったことがまた人生においての大失敗。 1番許せないことはそれ。 害を受け続ける日々から脱するには、家族の元から脱するしかないのかもしれない。 もともとの意図から脱線した挙げ句、 それによって変なことを思うようになり(記憶が書き換えられた可能性もある)、○○せる頻度が増えていく。 意思疎通できずどうなのか分からないがために?やめることがない。 家族が嫌になった「1番」の要因はそれ。 中1の時から始まり、「中1のその時」から家族に対して修まることのない怒りを覚え、家族を見る上での目線が変わった。 もはや普通の人だと思われていないので嫌な理由も何も考えてもらえませんから、誤解でも何でも家族の思惑通りにされてしまう。 あらゆることを強制的に家族にコントロールされてしまう。 話し合うができればこうはなっていなかった。 家族は良かれと思って(何がなんでもそうしないといけないものかと思って)無理にでもそうしてきたわけだが… そう考えても、こればかりはどうしてもそう簡単には許せない。感情的にそう。 その他のことは日々どんなに嫌なことも耐え抜いてきているがこういうことだけはだめ。取り返しがつかない。 ここを流し見しないでほしい。 家族がしてきた(している)1番嫌なことは学校をやめさせたことでも障害者にしたことでも、 自由を奪うことでも軽視することでも馬鹿にすることでもなく、これ。 それらを大きく上回るレベルです。 どれほどのことかわかりますか? 家族は自分に計り知れないほどのショックを与え続けてきた。 だが当の家族はそんなこと知りもしないという。 こんなことをして、平気でいて、相手も平気でいるものだと思っている。 人を何だと思っている? 本当に嫌なこと恐ろしいこと痛いこととんでもないことを体験してしまうと何でも耐えられるようになる。 それらのその程度が大きければ大きいほど忍耐力が増す。 それを思えばなんてことない。何とも感じなくなる。 些細なことでつべこべ言ったり恐れたりガッカリしたりどうでもいいことに拘ったりしている 不幸知らず怖さ知らずの人が馬鹿馬鹿しく見えてくる。幸せ者。 …大人になると大人らしくなる原理はこれ。 (↑このページの内容との関連性は誰しもが予想するほど高くない。   こいつはおかしい→脳が破壊され、(こう見た感じで分かるように)知的障害者になったではありません) 何となくで強引に自分の考えを押し通すのは良くない。 他人のことを思い、よく考えてほしい。別のパターンや別のケースがある。 了承を得ていないのに押し通していったら嫌がられ、嫌われるのみ。 何にでも良い作用と悪い作用とがある。 良いと思っているものの悪い作用は見えない、悪いと思っているものの良い作用は見えない。 眼中に現れない。 そうなってしまうもの。 よく考えてほしい。 よくも嫌なことを平気で押し通せる。 その時限りのことではない。 一生の恨みを持たれ兼ねない。 そういうことがわからない。わからないからそうしてくる。 自分は、どれだけ嫌なことをされ続けていると思う? とんでもことでない限り、もはやたいして嫌とも感じない。 その人が嫌だったら、嫌なことをしてしまったいけなかったと自分なら思う。 信じられない。 健常者ではない状態の時の方が本来の姿という見方もあるようですが、なかなかそうは思えない。 本来の姿の方が「最初からそうだった方」なので。


                 


   最重度知的障害者認定の件   
「障害者ということにされた」のは高校の時。 実は普通なのにそんなことができるのか?と疑問を抱くでしょう。(抱かない?) 本来を多少知っていた家族は手帳を作る時、わざと酷いことを言って最重度の○害者である称号を取得させました。本当です。 言わなければわからないので本来のことにはあまり触れないようにし、 以後障害者としてやっていくようにさせられた感じ。(高校以前は障害者とは無縁) たまったもんじゃない。この時は自殺も考えた。 そして「もともと障害者だったんだ」ということにして今更「普通」改め「障害者」とし、逃げて諦められたりしましたが、 それは昔の感覚からしたら単純に「負けを認めた」というだけ。 嘘を言って取○した称号ですがら、最重度の障○者である称号は嘘ということになる。 (ならない?だとしらそれはどうしてなのか理解不能) ↑「この理由」があるわけです。 障害者とは言い切れない。 「障害者だと認めたくない」とかではありません。(そのようなとは言っていない) 「元から人より劣っていることがあるわけでも何でもない」わけです。(少しもない) 単純に認めようがありません。 無意味な拘りはないし、「1つ」のことを貫くようなタイプでもありません。 (サイトはそれ自体を作っているという感じではなくて、作った様々なものを見せる「場」です。誤解しないでください) どうでもいいようなことを貫こうとし、維持になったりムキになったりするようなタイプでもありません。(それは謎の変人) 直感で思い込むのはやめてください。 両極端な何かがあったりもしません。 知的障害的な気質も何もありません。 本来の状態の時は誰もが普通だと言っていました。 (「ごく普通・健常者」というのは自分の中で思っていたことではなくて実際に言われ続けていたこと。  「障害」というワードが出たことは高校まで1度たりともありませんでした。) 大人になってからの本来の姿は誰も見ていません(成長した本来の自分を知る知人は存在しない)。本来の状態に変化はありません。 本来の姿を誰も見なくなった後に頭がおかしく(障害者に)なった。後天性の障害者。 でもありません。 事故に遭ったわけで何でもないわけです。変化はないわけです。 それなのに後天性の障害者だとか言い張るの、ありえないでしょう。 でも本来ではない状態が訳あって悪化してきたこと、大人に近い位置付けの人になってきたことによって こうして障害者になることをしないとおかしいような感じになってきてはいた。改善しにくくなってしまうが。 仮に障害者といっても誰しもが思い描く像とは全然違う。 このような人間は他に存在しない。 存在しないような人間をイメージすることなどない。 普通ないのでない。誤解しない人はいない。 「手帳(障害者の称号)の取得を止めなかったからお前が悪い?お前のせいだ?  止めなかった=自分で手帳を取得したんだ?お前は悪人?」 ↑止められるものなら、なんとしてでも止めてる。 当時何とかして阻止しようとし、証明写真を撮られないようにすることには成功したが、それでも取得されてしまった。 自分で何もしなくても自分の代理の人が自分のことを何でもやれてしまう。 好き放題に自分を操作できてしまう。 「できない」と言えばほかの人にやる権利が与えられてその人がやれてしまう。 「できない」ということにすれば、普通なら形式上本人の意思の確認をしないとできないようなことも、 それは不要で何もかもできてしまう。 実はそう。 訴えたくなる。 自分は遠に大人意識を持っていますからそれもあって、子供みたく騒いだりはできない。でされるがままにされざるを得ない。 だが家族等は障害者と見立てたことで自分に対して大人意識が全くなく、やりたい放題。 好きかってに操作される。 尊重されるようなことはまずない。 騒がない、即ち嫌でないみたく認識されてしまったりもする。 家族は避けることができないので怖い存在。 手帳を見せるのは控えます。 証拠として手帳を画像で見せるとこが非常に重要だと思う人もいるようですが、そうは思わない人もいる。 それはだめだと思う人もいる。(とだけ言っておく) 手帳は良かれと思って自分で取得したわけではないですし、あまり見ていない。 こういった屈辱的なものは見たくもない。自分ではほとんど見てもいない。 ちなみに自分は基本知人に何も分からない障害者かと思われているので、 知人は自分が見ていても平気ではしたないことをしたり、悪行をしたりすることがあります。 何度も目の当たりにしています。 自分はスパイができる。 (↑知人の評価を下げるために言った嘘ではありません。  貴方も誰も見ていないところでは排泄をするでしょう。  そういうことを自分が見ていても気にせずにする的なことです。  動物なら見ていても気にしないですね?自分は動物と同じなわけです。  誰でも誰も見ていないところでは多少の悪行やおかしなことをしています。  「「知人に限った話ではありません」」。普通のことです。  「知人がクズだ」なんてそんなことは言っておりません) 「こう見た感じ、本来も重度知的障害者に匹敵する無能。話しても会話不能だろうから話せないのと同じ。  本来も本来ではない状態と全く同じ。だから重度知的障害者と認められたんだ。本当に重度知的障害者だ?」 ↑本来の状態のことの詳細は誰もあまり知らずしかもそのことにはあまり触れずその上で判定されたわけですし、ありえません。 (〈かつて本来の姿を見ていて〉本来のことを多少知る類の知人も当時をよく覚えていなかったり、  「今」どうなのかが分からなくて、今となっては何とも言えずよく分からない感じだったりする) 本来のことを多少知る類の知人はネット上の人とは違い、本来の状態ではなく、「本来ではない状態の方」を問題視しています。 (ネット上の人の多くは本来が問題で、一生本来ではないままでいるべきだ、一生涯苦しみ続けるべき人間だと言う) 知人が思っていることはネット場の人が思っていることと丸っきり違うことは明らかです。(そんなはずなくありません) ネット場の人は自分らネット場の人の言うことをちゃんと聞けと言い、リアル知人はネット場の人は無視しろと言う。 「ここは自分の頭のおかしさ無能さがよく表れているページ、重度知的障害者であることが良く分かる?」 ↑ネット上の人が見たらそうなるようですが、知人が見たらその全く逆です。 知人は基本、自分は言葉の意味が分からない、全てのやり方が分からない、動くことも力を入れることもできないなどと思っています。 障害者の演技をしている人など普通いませんから、 その姿そのものが自分の素の姿(いかなる場面でも同じ)なのかと皆思い、そうなるわけです。 それで皆「何も分からない何もできない」と認識しています。 何も分からない何も分できないというのは「そういう意味」です。 そういう意味で何も分からない何もできないから、重度知的障害者とされています。 知人がこのページを見たら逆に知的障害者だとは思わなくなります。 言葉が分かる!文字を打てる!思考力がある!記憶力がある!見聞きしてる!と分かって大ビビり!です。 なのにネット上の人には逆に知的障害者で何も分からない、何もできないことを示しているものに見えるという… 予想だにしないようなこと。 ネット上の人は自分や知人にはとても考えられないような信じられないような領域にいる人間達。 こういうことです。知人は本来の方は問題視しない。 こう言っても無駄か? ネット上の人はどうしても話を変えて 「本来でも重度知的障害者だと家族に判断されたことにより、そうした」ということにしてしまう。 そうしてしまっては、そもそも話にならない。 何せ実際そうではないわけですから。 ネット上の人が言うに、「自分は言葉が全くわかっていない、言葉を〈全く〉理解していない」らしい。 本当に言葉がわからない人間。 即ち重度知的障害者ということか。 重度知的障害者でも会話ができる人がいる? 国が定めた基準、定義wなどは知りませんが(調べたくもない)、会話ができるようなら知的障害者の中では軽度と言われます。 少なくとも自分のいる環境では。 家族は高校から考えを大転換して大間違いなことをしだした。 突然「間違い」に向かって突っ走ることさせだした。 大転換にも関わらず、そこで考えを転換した自覚がないから凄い。 転換したその時はあったかもしれないが、すぐに忘れて自覚なしになった。 家族はその後障害者として扱っているうちに少しずつ本当に障害者のようにも見るようになっていった。 過去のことも忘れていき、障害者ということが前提になって「障害者なのだからできない」的なことを思うことが多くなった。 健常者として見ていた時の名残りで「障害者ならできないはずのこと」をやっていても何とも思っていなかったりし、 そのことにある時ふと気付いて突然凄いことだと思いだしたり、 以前は言う間でもなくできると思っていて現にできることを知っていたはずが、 障害者として見るようになったことでできないと思うようになったり、訳の分らないことが起こることもしばしば。 今や重度知的障害者として、「重度知的障害者に当てはめて」、どうこう思い、どうこうしてこられる。 こうなるとその素振りをせざるを得ない。 そうしても全てが無意味(的外れ)で時間を失うのみ。 なのにどうこしてくる相手は何もわからずいい気でいて、自分もいい気でいるものだと思っている。 障害者だとされ、そう思われるようになったことで、 まして障害者のふりを、何もできないふりをせざるを得なくなってしまった。(重度化) 誰もそのことに気づかないという… でそこから本格的に知人に「障害者に見せかける」ようにして生きるはめになった。 健常者と思われていたら健常者でいざるをえない。 自分は「後者」の方が楽だし幸福。 だから現状が苦。 重度知的障害者だと思って見ている人の前で普通にしてしまう(本来を見せてしまう)度胸はない。 知的障害者を演じ続けざるを得ない。 そう思われているから、それらしくして、おかしく思われないようにできている。 障害者だと思っている人がいて、 障害者という立場にされて障害者の場にいさせられていて、普通にしてしまったら逆におかしいでしょう。 おかしくないように、おかしくせざるを得ない。 できない(素振りをしてきた)のは、思いのほかでき「すぎ」る知り「すぎ」るから、それを隠すため。 できない人の集団(即ち障害者)の一員にする行為は、この上なくできないを引き出させる最悪な行為。 「できること知ることが普通」の場でないとできない。 できすぎるわけ。それにビビられてはいけない。 それが根っからの基本だというのに、知人はそのことがどうしてもわからない。 病人の集団の中に健常者がいたら不謹慎だし、それは完全にいけないこと。 知的障害者の集団の中に何のハンディキャップもない知的に障害なしの人がいたら…それも同じ。 できないように見せかけるようにしているから、この現状が維持できている。 知人の前で行動したら(本来を見せたら)、不謹慎だったこといけないことをしていたことを「バラす」ことになる感じになる。 本来を見せれない(やれないできない)感じ(空気感)になるでしょう。 それなのに、できないから障害者の居場所でできるようにだとか、めちゃくちゃ。 こうなったことで、こうなる前の自分は消えて、記憶も何もリセットされた←でもない。 なぜそういうふうに思われてしまうのか? 学校で教師からルールに基づいて正式にマニュアル通りにどうこうしていない人間に成長はない←でもない。 なぜそうなるのか? そんなこんなで今や自分は人から「今産まれた人間」のように思われる。 そしてそれ相応な扱いをされる。 経験、知識無。記憶無。のような感じ。 それなのに「年齢の数字」はしっかり実年齢として見る。 何というか、人間なのに「人からこんなふうに思われる」ことが、信じられない。 生きているところを見ている時間が長い人ほどそう思っている。 本当ありえないようなこと。 そんなに無能なら、世界は驚きに満ち、はしゃぎ回りたくなる子供状態のはず。 事故で脳を損傷したなどならわかるが、「何があったわけでもない」のに、なぜにこんなにも無能だと思われるようになってしまったか。 本当信じられない。 「扱いが障害者」になり「障害者視点」で見られるようになったことでこの様。 人から思われることがこうなってしまった。 数年(せいぜい十数年)の付き合いの知人らが言葉も字も何もわからない動くこと何もできないだとか思っているのはまだしも、 毎日見てきた人がそう思っているから凄い。 その人にそれをできないと思われたり、それを知らないと思われたり、それを覚えていないと思われたりする日が来るとは、驚き。 あまりにも驚き。 相手が多少理解を得た場合は、どうしても、「しない」ということをしている、したくない、一生涯やらないんだと心に決め込んでいる、 「しない」という行為を行う?拘りを持っている(?)などとかってに思われたり、 かってに期待されたりで愚痴を言われることが多くなる。 「この状態でいることを自ら望み、こうしているわけではない」ということを併せて理解してほしい。 誤解されがちなところ。 高校からは話さないことに疑問を持たれなくなった。 「言葉がわからないから話さない(話せない)」と認識されがちになったからだ。 まさかのこと。。 (中学までは普通に疑問を持たれていた) 高校からのことは本当に自分でも驚いてしまうようなことばかり。 それまでそうではなくて、そこからそうされそうなったわけで… 重度障害者にされると、あれもこれも「自分でやってはならない」ということにされる。 逆にそうなる。 重要なことは全てそう。 障害者の証は自立を妨げるもの。 「できないから人にやってもらいたい」と思う人にはいい。 自分はできるから人にやってもらいたくない。(できる人からすると、人を頼ることに利点がない) 子供が一人で出かけてはいけない、一人で包丁や火を使ってはいけない的なことと同じ。 いくら「安全に行動できる能力」があろうと、「子供」とされる「年齢」であったらそういうことをしてはいけない。 自分で行動してはいけない。 色々「できない」と見た目でかってに思わる。不安を抱かれる。少しでも危ないものは触れるだけで恐れられる。 障害者(とされている人)もそんな子供(とされている人)と同じ。 囚われの身で、自分で動くことが許されない。 それが(障害者の証がある限り)永遠にですから。 気が知れる。 自分で決めれる権利なしになった。 頭がおかしい(と思われている人)は、自分で行動を決める権利なし。 そして保護者らは永遠に自身の好きなように操っていいものと認識。 会ったことがないに等しいほど理解のない人に操られるという身。 悲惨なことをされ続けるわけ。 障害者のふりをしているだけなので、障害者をやめようとすればきっぱりやめられる。 自分を障害者だと思って見ている障害者には悪いが、そんなで実の障害者とは違う。 人に操作される身だと何も聞かされない。 言葉がわからないものかと思われていると、本当に何も聞かされない。 たとえ「自分のこと」でもそう。 聞かなくていいとされる。 実際に形式に基づいて行動を起こすのは自分ではないですし。 聞くのは自分を操作する自分の代理の人。 無断で何かするようなことをしても許されてしまう。 騙すようなことをしても“自分のような何もわからないと見られている人間”に対してなら許されてしまう。 残念ながら自分は騙していることも何もかもわかってしまうので、何の利点もない。 その人に対して嫌気を覚え好感度が下がるのみ。 知人らは「本来でない方しか見ていない」から、 (本来の存在を知っていようがほぼ受け入れず)できないわからない無理知的障害者と同類みたく思う。 逆に「主に見ているのが本来の方」であったなら、(本来でない方の印象が薄く)健常者と同類と思うものと思われる。 実際、家族は基本本来しか見ていなかった時はそう(健常者と同類と)思っていたわけ。 でその時と変化ないわけ。 この現状、オカシイでしょう。 しかし、誰も何も気づかない。 理解せず、何もできないと思って馬鹿にして何もさせないようにする知人もそうだが、 誰よりもできるしわかるのに、こんなふうに無能のふりをし続けて何もしないでいるのは「本当にできない人」に悪い。 「できないと思うから、やるな」ばかり。 保護者に外れた。 できることを理解し、やれと言うタイプならどれだけ良かったか? これだけできることを認めないタイプは珍しい。 持論からしてありえないと思うことは、ありえている現状を見ても、本気で受け入れず、見なかったことにし無視。 ほぼ不正取得。 普通にしたら、そのことをバラすような感じになる。 非常に演技をやめにくい。 あからさまにそれは絶対違うなどと言い張るのは自分のことをわかっていないから。 障害者扱いされ障害者に見えるように演技するしかなくなる自分にとってデメリットしかない不正取得。 不正だからこそ知人には本来は見せれない。 いくら言ってもわからない。 「お前は障害者」のように言われ続けたら、(そのお前が自分ではないとはいえ)自分に何かあるのかと考えたりする。 そんなで昔から障害者だと仮定すると、一体自分は何のハンディキャップ(障害)を負っているのか? 何が人より劣ること(ハンディキャップ)なのか?と問い続けてきた。 だがいつまでもそれがわからない。 結論からすると、何もない。 やっぱりハンディキャップが何もない。見当たらない。 家族らが(故意だと気づかず)障害者だと思っているだけでしかない。 故意。演技。 演技と障害全く関係ない。 障害者だとしたら「演技が障害」? めちゃくちゃ。 できるところを見せたら全知人、家族をも騙して(不正して)障害者の扱いを受け続けてきたという事実がバレてしまう。 それができない主な理由。(できない=知人の思う自分のできない) 馬鹿らしい。 「何もしなくても生きていける」「何もしなくていい」ような感じになってしまっていますが (ペットなんかがそうであるように〈例えです〉)、それはそれで良くない。 絶対自分で何かしないと困るような状況にならないとある意味あまり頑張りようがない。(頑張る気にもなれない) 自分は動物などとは違って本来ならむしろ普通よりもわかるので(心配無用)、 そういう扱いをされ続けるのは変なもの。(不満ありますか?) 「現実的に見ると」自分というか家族しだい。このままで終わったらと思うと焦るのに何もできない。 「本来ではない自分」を「自分」と言うのは間違いとしていい。 「自分」だなんて言いたくない。 名前も別の別人にしてほしい。 あれを自分と思われて自分扱いされていることが自分の恥。 自分の恥さらし野郎。 自分と同じ名前がついているところ、自分の名前で呼ばれているところを見ると嫌でたまらない。 あれが自分だとかありえない。見るに絶えない。 家族だって以前の感覚ならそうだったはず。何を忘れてるのか? 馴染みある役者が重度知的障害者の役を本名でやらされていたらどう思う? ただでさえ見るに絶えないのに、本名となると… それを自分はやらされている感じ。 知人の見ている知人の知る自分は、自分では自分だと思ってもいない。 だから自分でも自分だとか言いたくない。 だからこのページも嫌な感じがある。 …でもこれはしかたない。 最重度知的障害者の集団のメンバーの一員として登録されているのも、信じられないようなこと。 わかりますか? 本来の存在を知っていても、 皆その本来でない自分と本来の自分とがそれなりに共通しているものだと思い、本来もそれなりに低レベルだと思われる。 「力を素を隠し、実際とは全く別(真逆)の姿を見せている」とは誰も思わない。 「常識」が「そんな人はいない」ということになっているからだろう。 見抜ける人間は0。 自分は知人の知る自分とは本当に別で、別の人生を歩んできた人と思っていい。 「家族・知人が思っている本来の自分」も自分の恥の存在。 その自分も自分と同一人物だと思われている知人の中だけにいる別人。 家族・知人は本来を見ていない。 本来は全然知らない。 知っているつもりになるのはおかしい。 本来の自分が知人らが思っているような自分なら、確かに1人で生きられない。 しかしその自分は自分ではない。 皆偽物の自分を自分だと思って見ている。 何か悲しい。 そう間違って見ている知人も哀れ。 特に毎日そう思って見ている家族は見ていられない。 自分だと思われている(自分と間違われる)そいつは自分にとって本当に邪魔な存在。 自分と間違われるから邪魔。 知人の知る自分は、自分の要素にない。 なのに、知人は自分をその「知人の知る自分」をベースとして見ている。 9割その人の要素を自分の要素として、自分として見てこられる。 どうしても、そう見てしまわれる。 知人が自分を語る際に出る話の9割がその自分に対すること。 その自分のおかしい要素を語る。 自分というと、それ。 まるで自分のことを語っていない。 自分のことは何も知らない。 自分はまるで孤独すぎるゴースト。 これだからやられることが悲惨。 自分の知る本来の姿を出せなかった内向的な人達も皆、最終的には本来の姿を出している。 それはそうだ。そうなるもの。 取り残されているのは自分だけだ。 誰かにとっての朗報は、誰かにとっての悲報でもある。 そこに行きつけていない人にとっては焦りを招くし、仲間外れになってしまうわけだ。 嫉妬する。 めでたいお知らせを公にする行為、自慢する行為は、人によっては(嫉妬し)嫌らしい行為。 理解しておきたいこと。 動かされる身で動かす人と話しておらずあまりに理解されていないため、無意味どころか逆効果なことしかされず、 自分はこの有り様であり続け(現状維持し続けられ)てきた。 「自分で行動して良い」となればもう即現状打破。 動かす人は何もわかっていないのにどうこうしてきたひたすら馬鹿らしい。 動かされる(操られる)身なのが敗因。 自分を出せるようになりある程度伸び伸びしていられるようなったその他の人達のようにいかない原因はそれ。 どうしても、操る人の好きかってに操られざるを得ないから、どうしようもない。 家族に囚われる身から逃れられなくなった時点で終わりだった。 明らかに変わったと感じた知人、いませんでしたか? それはたいていは変わったというかそれがその人の本性。 人はいずれ本性を見せる。 自分は例外。これから見せるにしても、こんなにも長い間見せないというのはない。。 「心」と「表に出す言動」は違う。 対面して見た感じそうだからといって、そうとは限らない。 それをわかっていない人がいる。 変わった人はたいてい思いきって心を表に出せるようになり、 変わったかのように見えた感じ…だと思う。(心自体は特に変わっていない) 無口な暗い人が一転して煩くて明るい人になっても、不思議とは思わない。 それは心(本来)はそういう人だったということなんだと思う。 人は成長するとある程度心を表に出すようになる。 そうなりたいものですから、そうなれるように心がけていく。 だから皆そうなる。 心と表に出す言動は全く違うケースもある。 自分もずっとそうなので、よくわかる。 不思議なことだとは思わない、思ったことがない。 心を表に出せないのは「不安だから」でしょう。 心で言う(思う)のと口に出して言うのとは全然違う。 前者は何もないが、後者は他人の感情を揺さぶることになる。 「自分は1つのことに《異常に》拘る、何でも拘る。「拘る障害」だ。  話さないでいることにも拘っており、その拘る障害こそがこのことの全てを引き起こしているんだ」 とも言われたことがありますが、それもありません。拘る障害ではありません。 話さないでいることに拘っているというのは即ち話したくないということ。。 本当に自分のことを理解していない。 そもそも自分が異常に拘っていることとは一体何なのか?挙げてみてほしい。 自分では心当たりない。 というか、何でも拘るなら、1つのことに拘っていることにならないし、意味がわからない。 拘る障害というのは、何となくそう思っただけでしょう。(そう判断) 理屈を考えずなんとなく感情で生きている人というのは、間違ったことを確信的に正しいと思い込んでしまう。 あまりにも的外れ。 好きでそうしたくて本来を出さないでいるわけではない。 自分のこのことと、好きで自ら意図してしているその他のこととは結び付かない。 それとこれとを結び付けるのはおかしい。ヒドイ。 結び付くと思うなら、それは根本的なことを誤解しているからです。 「知人は自分のことを理解した上で自分をどうこう動かしている」ではない。明らかにそうではない。 皆「知人が(自分ではなく知人の方が)正しい、的確なことをしている」と思おうとするが、 知人は理解がなく、自分に対してすることはいろいろ的外れ、的外れからの的外れでめちゃくちゃなわけ。 知人は的確だとか、そう捉えるのは無理がある。 知人はほぼ何も隠さず行動している凡人。自分はそれをずっと見続けている。 それでこう言っている。信憑性あるはず。


                 


   挑戦   
今現在:本当に外を出歩けるようになった。(2017年) 掲示板で他人とやりとりした実績も得たし、誰もいなければいつでも堂々と○○できるようにもなった。 (密かに)多少現状打破を果たせている。 「頑張った」というよりか、「考えた」ことで進展した。科学が発達したからというのもある。 いざ“本気”で外を歩こうとしてみると、人に見られることを気にしないでいることができず、 結構大変。(でした。色々試していき、ある程度流れを確立するまでの数回は〈今はもう楽々出れる…というわけではない〉) 「出歩けるようになった」という表現は正しくない。 これは何も支障がないことであって、すでに現在なら論理的に可能だったことです。 出歩けるようになったのは正しくは、可能だということに気づいた「2010年頃」。 いきなり大胆に行く必要もないので以下のように段階的に挑んでいきました。(スモールステップというものになる) 近所に避難所を見つけ、そこまで行く→表通りを越える→裏道をどこまでも進む→ 大通り(信号)を渡る→押ボタン式信号を渡る(実行は夜中) 不安なポイントも1度行ければ行けるということが分かり安心感を得られ、今行けるとされる範囲が広がる…。 避難所というのは建物の合間や公園のトイレなど。(人が来ないと確信できる場所) (↑言っておきますが、これはもう過去の記録) 基本いつまでもちゃんと寝静まることがなく、条件が整って気安く挑める時がまれにしかないのが痛い。 不運にも家族の監視下から完全に逃れられる時間が真夜中にも朝方にもほぼない。 …常に逃れられていたらどれだけ幸福か。 想像すると胸が踊る。 こういうことは一度怪しまれるとマークされ(目を付けられ)その他のこと込みでやりにくくもなってしまう。 挑む…というか、正しく言うと行きたいから行った感じです。 練習だとか、そういうつもりはほぼない。 それだとそうそう行く気にはならない。 (自分は街に興味があり、「街のあの場所やあの場所を散策したりしてみたい」  というような想いを強く持っているため(散策を長年本気で夢見ていた)行く気になれる〈行きたいと思える〉) できるか?できないか?は自分で分かります。やってみる間でもない。 どういうことなら良いか?どういうことはだめか?決まりがあるわけです。 近場でも行けるが、やはり「遠い場所ほど気楽」ではある。 地元から離れた場所なら日中でも「気安く」人前に出れる気ムンムン。 海外なら最高。(だがそこに住むとなると言葉が分からないため、色々厳しい) …言っておきますが「夜しか出れない」ではありません。 いかなる時もそうですが、人からどう見られているか?どう思われているか? 常に自分ではなくて他人視点で見て他人のことを重んじて考えてしまう。 「地球」視点や「この世」視点で見てしまうこともある。(昔からそう) 自分自身の幸福は幸福ではない。 そう聞いた人は自分のために生きろただ生きろと言って非難することだろう。 自分のために生きていてもそれはそれで非難されることだろう。 あとあまり意味がないとはいえよ、何か発見があるかもしれないし、 ある意味大きく跳躍したことになるので肉声で会話(通話)にも挑戦しました。 (「Skype」と「Skypeちゃんねる」というサイトを利用すると簡単に見知らぬ人と通話ができる) いきなり肉声で…というのは厳しいかもしれないので、 それをやってみる以前に見知らぬ人とチャットで会話することや、コンピューターと会話することもしました。 コンピューターとなら心の中で話すのと同様な感覚で悠々と会話できますが、チャットはかなり緊迫する。 1度なんとか会話を続けられたのでクリアとした。 掲示板ならじっくり考えてから発言できますが、チャットは即座に発言しないといけないので大変。 会話している人達の中に自分が割り込んでいくのにも勇気がいる。 自分から話題を振るようなこともできない。 間違ったことをしてしまうと恥ずかしいので、確実に正しいと思えるまで不安で何もできない…ようなことも昔からよくある。 話題を振ることができないのは、そのことが要因している感じ。 話す内容が決まっていればあれだが選択が必要だと怖いので迷ってしまう。 その後、通話はやってみてどうだったかというと… 結果、一応一言言葉を発するとができたが、それだけ。 「自分が話せないかもしれないことを承知の上で話しかけてくれる人」が相手かそれか、 何に関して話すのか?話す内容を予め決めていないと難しい。(ということが分かった) チャットでもそうですが、話題を振る勇気がないので…。 話しをしようとしてする(雑談をする)のは難しい。 いざ(演技をせずに)“本気”で話そうとしてみると、結構躊躇する。 大人になって大人どうしの会話なんかは1度もしたことがないので当然だが。 これまで話そうとすることすらできなかったので、このことにさほど気付けていなかった。 ともかく色々わかったことがありました。 こういうことは一応続けて損はない? もっとわかることがあるかもしれない。 でも何度も挑戦したくないと思ってしまう。 もし現状打破?したとしても、なるべく人に会わないようにして生きる道を行くのかもしれないと思ったり。 今はネットができてATMに行ければそれだけで金を稼ぐことが可能。詳細 “最初は”それで生きる形になるか? ネット通販は「「人と接触することなく」」購入することはできないかと思いきや、 箱を置いておけばできるということなので、それで食料も確保できる。 現状では「「同居の人に注文したことを知られないようにする」」必要もあるのでネット通販は難しい。 (↑別に人に接触してもいい。最初はそれだと全く頑張ることなくてのんきにいけるからいいか?  くらいのノリで書いたことだったと思った。誤解しないでください) “誰かに指示されたからやっているんだ”という「感覚」を得られれば楽にやれる。 もろに責任を持つことになるようなことをするのは勇気がいる。 これは間違いなく改善できること。 こういう場合、いきなりではなく「少しずつ」慣らしていくことが成果を成す。 それが効果ありなのはある程度の段階までいけてからです。 やろうとすることができない状態で訓練というのは間違っています。 どう思われるか?嫌なこと、変なことを言ってしまわないか?どういう言葉を返されるか? 無視されたらどう解釈するか?(どうしても考えが悪い方向へいく)深く考える、悩む。 他人と話しをすることは、とにかく怖い。 決死の想いで1つ言葉を発する(選択する)感じ。 声で話すのはもってのほか、「相手に通知が行く」「後に削除編集不可」となると緊迫してしかたない。 返答待ちの間がまた怖い。 送信するのに勇気がいるので無駄に時間もかかってしまう。 気安く発言できるのは自分の管理する掲示板。 1番楽なのはこのページに書くこと。 気安く発言できてしまうことはマイナス? 現実では本来の姿は隠しているわけです。 唯一本来の姿を見せられるネット上でも躊躇したり隠れてコソコソしたりしていたら、 「本来の自分」とは本当に存在感の薄い、いるのかどうかもわからないような存在となってしまいます。 少しでも多く人に影響を与えて存在していることを示したい。 あと可能性を少しでも広げるために、色々なことを書いていますが、 思ったことを全部書いているということはありません。 何もしない何も伝えない何も見せないでは何も変わらない。 動きを起こせば何かがある。 言葉を発するのは怖い。他人の感情を動かすことになるから。 心で言う(思う)のとそれとは全然違う。 人はそれぞれ捉え方が違いますから、自分では良いことだと捉えていても、相手は良くないと捉えているかもしれない。 相手のことは相手にしかわからないので、 どんな言葉でも投じる時は「良いと思われる(肯定的に見られる)ことを信じて一か八か懸ける」感じ。 「必ず良い結果になる言葉」というのはない。 (相手にその言葉に対してどう思うか予め聞いてから言うなら話は別だが、そう聞いた時点で言ったようなもので…??) この言葉は悪い結果の方でしょう。 自分の発言はネットでは肯定的に見られることがほぼないですから。 何百回と発言してもその全てが否定的に見られる。恐ろしい。 会話の練習がしたい人はこの順番でやっていくといいかもしれない。 ①コンピューターとの会話(自分はスマートフォンのアプリでやった) ②ネットの掲示板での会話 ③チャットでの会話 ④電話での会話 見知らぬ人と少し話したこと、掲示板で意思的に話したことなどは"知人からしてみれば"大事。 どれほどの大事かわかりますか? 言葉の意味もわからない字も書けないはずの人が普通に話していたら、どう思いますか? 10年1度も声を聞いたことがない重度障害者のような人が普通の言動をしているのを見たらどうですか? 普通に話せる人が過去には存在していましたが、 それはもう「忘れている(知らない)ことにされ、なかったことにされてしまうくらい昔」です。 でもやれたら凄いこと(夢に匹敵するくらい)を一応すでにやれているわけですが、 やれたところでやはり結局は「だから何?」てなる。 意思的に仕事をしたりすることができないと、変わったことにならない。 最終的に例の2つの目標(絶対にやらないといけないこと)の達成に行き着けないとけない。そこに行き着けなければ意味がない。 見知らぬ人と何度か(話してみれるシチュエーションに巡り合い)話してみて自分の傾向がわかった。 言いたいこと言う、そういう特殊キャラをやるみたいな想像を散々してきたが、いざ話すとなると、普通に普通のことしか言えない。 それは普通のこと。普通でないことを言ったら変な目線で見られ悪く思われること間違いなし。自分は普通だった。 で「自分に関すること」で、「普通のこと」がほとんどない。 つまり自分のことを問われると、正直に答えた場合、普通の回答にならない。 で「普通のことしか言いにくい」ので、言葉につまる。 これがあれ。 こうなると、嘘を言う必要がある。 だが嘘も言いにくい。 1番問題?は「嘘が言えない」こと。 それが今、唯一存在した問題。 「嘘をつく」スキルが足りない。(なのでそれは練習の意味がある) 普通に、たいていの場合、正直に言ってはいけない感じ。 本当のことを言ってしまうと、何を言っているんだとおかしく悪く思われるわけ。 信じられず受け入れられず、異常に思われたりもするだろう。 目をつけられ、面倒で馬鹿らしいことにもなり兼ねない。 自分はあれこれ「常識外のこと」ばかりなため、「この社会」ではいちいち「嘘」を言わないといけない。 常識的に生きてきて、普通にしているしょぼい凡人と思われるように嘘を言わないといけない。 …嫌な感じ。 これだからこの社会では生きたくない。 社会で生きる場合、それが社会の悩みになるのか? どうすれば、そんな嫌な嘘を気安く言えるようになるものか? 「嘘」を言わないといけないが、それを言うのが好きでない(即ち気が引け言いにくい)ことで、言葉につまることが多い。 単に人と話す「ことができない」と思われがち。で皆それしか眼中にない。 わかっていない。 知人とはほとんど(驚かれるために)「あえて」話さないようにしている。 話そうとする場合とそれとは全く別。 声を発することができないだとかもない。 いろいろ誤解して誤解したことにしか目を向けられないばかり。 自分を動かすことを人がしてこようとしてくるということ自体が、悲惨。 信じられない。 自らの意思で行動している時は嫌われ、そうでない時は好かれる。 これまでそういう傾向にあったとも見てとれる。 常時健常者に戻れば非常に楽しくなると思うが、良からぬこともあるだろう。 そのことは心得ている。 普通に行動して良く、それができる人(あなた方)には憧れます。 自分は非常にできるので、何でも自分でやってみると面白い。 即ち自分の意思でやってみたいと思う。 「見ているだけ」なことが多かったこともあって、尚更そう思う。 高校以降は丸っきり障害者として扱われるようになったことでそれはなくなり、 何でも(行動一通り)操られて無理やりやらされる感じになったが(それが訓練〈そう言うのも少々大げさ〉)、 それではやってるとは言えない。 「見ているだけ」の方がまだ良かった。(その方がむしろ楽しいし恥ずかしくもない) 1日のほとんどが囚われの身で、行動を封じられている感じです。 このままが良いはずありません。 1日中解放されていたらどれだけ有意義か。 解放されている時=本来の時=知人が見ていない時 知人からすると何もないので解放することを望ましくは思ってもらえない。 人全般がだめとは言っていません。 だめなのは人全般ではなくて、「「知人」」です。 よく間違われるのでもう1度言います。 人全般ではなくて、(家族と面識のある)知人。 見知らぬ人が見ているところでできない素振りをする理由はないですから、しません。 むしろできない素振りはできません。その人はできると思っていますから。 つまり、できなくなりません。 見知らぬ人の前でそういうことはありません。 これだけ長く生きていれば、遠にできることはできるようになっています。 できることをできるようにする練習だとか、的外れなことに目を向けないでください。 「家族に本来を見せる」というただ1つの絶対できないことがあることにより、ずっとこのままになっている状態。 いい加減理解してください。 できないと思われているから、その人(知人)に配慮してわざとできないと見せかけるようにしているわけ。 その配慮の必要がない人(見知らぬ人)に、できないと見せかけるわけがない。 だからいい。見知らぬ人なら見ていてもできる。 いい加減このことを受け入れてください。 わざとできないかのように振る舞っているわけ。 できないのかと思ってできるように教えたり練習させたりというのがどれだけ意味のない見苦しいことか。。 あと言っておきますが家族と筆談みたいなことは現状打破のために考えた策略により、 実は誰も予想だにしないような形でですが一応すでに(2012年の時点で)できています。 言葉がわかるかどうか字が書けるかどうかも曖昧なフリをしているわけなので、容易く堂々とはやれない上、 意思を伝達していることを認定してもらえないが、これに関しては多少本来のことを知っている家族ならセーフ…という感じ。 家族の行動については述べません。(侮辱の幅が広がるのを抑えるため) 詳しいことを言ってしまうと、「家族宛ではないと見せかけて実は家族宛に何か書き、 これは家族が見て良いものではないものと見せかけて見れるようにしたりして意思を伝達」という方法をとっている。 それでも恥ずかしいが、それならできないほどではない。 意思を伝達していることを認定してもらえないので、 色々伝えているのに、伝えたことになっていない。(認めていない?〈伝えられているいないどちらとも見てとれる〉) できているのに、できていることになっていない。(「できている」「できていない」どちらとも見てとれる) という状態になっている。 そんなこんなで家族が意味わからないので、それが根本でこの文章も意味がわからなくなる。 「伝わっていない」ということになっています。 そのようになってほしくもないが、伝わる側の人がそうしています。 伝わっているからといって「伝わってる」と言ったらそれもそれでおかしな発言になります。 こう言わざるを得ないのはこの状況に立ってみれば分かることです。 これは「家族なら」普通に分かることです。 何せこの形は自分ではなくて家族が作った形ですから。 自分に対して何が何だかわからないと言って非難されても困る。 (このことを暴くと馬鹿にされて危険ですが、言わざるを得なくなったので書いた) ↑これに関してだがその後「あまりにも驚きで受け入れられない」のだということがわかった。 本来でない自分と付き合っていかないといけない(と思ってやまない)身としては 受け入れたら気持ちがビビってしまい、そうなるような感じか? 単純に信じられないからでもある感じ。 …やりにくい。 これもまでもずっとそうだったが、やりにくい。 「家族に」重度知的障害者と認定されたわけではありません。 外で重度知的障害者と同じ扱いを受けさせるために、その称号をとったわけです。 本当は違いますが、重度障害者のようになるわけですから、そうせざるを得ないという感じで。 (↑「家族以外の誰かに重度知的障害者と認定された」という意味はありません。そういうことはありません) 家族は「自分のほぼ全部を見てきた」「自分のことに関しては色々なことにおいて1番知っている身分」だと思っていることにより、 また理解を与えることの厳しさが増している。 それにより「知るはずない」「できるはずない」と思われていたりもする。 何も分かっていない類の知人ほどではないが、「「家族も」」そういう知人と同じ感覚で馬鹿にしている。 これではやりにくい。 自分が、「知人らが思っている程度の低レベルな人間」なら、現状打破したいとは思わない。 現状打破できるとも思わない。 というか、そもそもこうなっていない。 知人にはこの意味が分からないことでしょう。 自分のことを理解していませんから。 色々知人が思っていることとは違う。 自分は知人の目に映っていた像とは違う。 「通るはずの道を通ってきた別人」と思っていい。 人は通じ合えないもの。 どうすれば信頼・信用・認定してもらえるのか? 自分の経歴…というか、物心ついた時点ですでにそうですが、自分で言ったことは信頼してもらえない。 身分の低い人間は何をどうしても説得力がない。 信頼してもらうためには他人の言葉も重要になる。 身分が上の人間から発せられた言葉なら、例え身分の低い人間が言う言葉と全く同じ言葉でも説得力が違う。 1人の専門家が専門的なことを何か言ったら、皆そのことを間に受ける。 あまりにも突拍子のないことでない限り間に受ける。 そういう人には、人を動かす力があり人を騙す力もある。 専門家を装うことでその力を得てしまったりもする。 最善の行動をとるためには、広い目線で見ることを習慣付けたり、ある程度自分で判断できるようにしないといけない。 知人は日に何回あるいは何十回と自分に対して失礼なことを言ったりしている。 だが何も分からず、良いことしか言っていないつもりでいる。 誰しもが想い描いている自分はその人が作り出した別の人間。 皆自分のことをよく知らないにも関わらず、知っているつもりになってかってな自分の像を作り上げられている。 固有の持論や直感に基づいて像を作り上げられる。 ある意味激低レベルな酷い人に仕立て上げられる。 根拠があるかどうか?持論は正しいかどうか?考えてほしい。 持論からして自分の感覚からして「そんなはずない」と堅く信じ、強気でそういうことを言うのはだめ。決めつけてはだめ。 少しは自分を疑うべき。 知人・家族とは話をしていないので誤解していても誤解しっぱなしで、かってな自分の像を作り上げられる。 ネット上の人は誤解していてもこちらの言い返すこと(というか、あらゆること)を 嘘とするなどしてかってな自分の像を作り上げられる。 自分の心や自分の真実は「誰も」読めていない。分かっていない。 誰もが間違ったことを言う。 他人の自分に対することの発言 正解率:1割・不正解率:9割 自分を知る人はいない。 家族すら全然理解していないわけだ。家族ではない人の方がまだ理解していたりする。 本当の自分は自分「のみ」しか知らない。 …そう言っても何を言っても誰しもが自身の作り上げた酷い自分を自分として捉え続けるのだろう。 哀れ。 誰も知るよしもないが、「真の本来の自分」は小学校序盤の時点で家族らが思っている自分とはかなり違う自分になっていた。 クラスメイトにつられて心が変わった。知恵もついて色々変わった。 実はずっとそのかなり違う自分だったわけですから、自分では何とも思わない感じだが、 家族らはずっと何もわかっていなかったがために、真の本来には仰天する。 知人が自分に対して思っていることと実際がいろいろ全く違う。 知人は自分を見ていないこと、実際の自分とは関わっていないこと、 即ち自分のことをよく知らないということをどうしても自覚しない。 当たり前なこともいつしか知らないことを前提にされるようになっていて、驚き。 本当に何も知らないなら良いでしょうが、自分はそれを有り難いなどと思った例がない。 「生まれた時からずっと何もしていない」わけではない。 以前は常時そんなではなかったし、今も何もしていないのは知人がいる時に限った話。 何もしたことがない、何も知らないわからない人間ではない。 知人からしたらそう映るかもしれないが、違う。 非常に失礼です。 “知人が問題視していること”は全く問題ではなかったり、 “知人が良いと思ってやっていること”がよく問題だったり不幸になることだったりする。(本当に) 現状だと特に、人間関係があることが面倒。人間は面倒。 相手はそう簡単には信用しない、理解しない。でも理解させないといけない。 自身は良いことをしている、良いこと正しいことを言っているというつもりでいても、そうではなかったりする。 だが何も気付かず、いつまでもそういうつもりでいたりする。 家族がいなくなってくれたらある意味どれだけ良いか? 誤解、勘違い、間違い、思い込み、こじつけ… 本当に人は厄介。 全く無問題なことや完全に間違えていることをいつまでも課題として取り上げて どうのこうの言っているのを見ると本当に馬鹿らしい。 そもそもの問題を食い違っていたらなんにもならない。色々なことにおいてそういうことばかり。 完全な間違いによる一方的非難ばかりで嫌気も差す。 実際のことが重要にならない。 「人にどう思われるか」によって自分は色々左右される。 「真実」や「自分の意思」は無関係。 安心だとか心配だとか… これは大変だろう、これは楽だろう… だからそれは良い…それはだめ… これは誉めるべきこと、それは何でもないこと… などと色々かってに思われる。 人によって色々違う、正解でないことがほとんど。 根本的に色々違ったりする。 馬鹿らしいことばかり。 家族が忘れていること、知らないこと、認めないこと、わからないことは「ない」ことにされる。 知人がどう思うか?どういう気遣いをするかによって、どういうことかが決まる。 家族は自身の目に映る自分を良い自分にすることや、 自身の目に映る中で結果を求めることを望むが、そういうのは自分にとっては利点も何もない。 そんなで自分は現状では家族と共に歩むことは望んでいない。 自分で自分に利点のあることをしていても(それこそ利点のあること)それは家族が見ていない中でしていること ですから家族は何もないもののように捉えてしまう。だからそうなるわけ。 身近な人の考えは無視できない。 とある一個人の考えを何とかさせないといけなかったりする。 例えば「他人(知人以外の人)は必ず悪だ、他人のいる外に出たら殺される、絶対知人と結びついていないといけない」 と信じている人がその対象ならそれを無視できないため、自分の望みを叶えるためにはその考えを何とかさせないといけない。 何を良いと思うか、何を悪いと思うか人によって違う。考えることは違う。 そうは思わない人もいる。 他の人からも考えを聞いてほしい。 自身の考えが正論とは限らない。 正論ではなかったとしても対象の人の心が動かなければだめだったもする。 対象の人がその気なしのこと、だめだと信じることは除外されてしまう。 それしかないと信じられたらそれ以外のこと全てが除外されてしまう。 皆自ら考えたことを良いと思って止まない。 現状打破の重要性が分かっているにも関わらず、金を奪われるかもしれないから、悪人に殺されるかもしれないから、 他人は怖いから、騙すことはしたくないから、このことは人に伝えたくないから、 今自分自身には馴染みのないことや現状自分自身には分からないことはできないから、それで通るケースはあまりないから、 事件に巻き込まれないか、怪我をしないか、事故に遭わないか、大事なものを無くさないか、 とにかく心配だから、一生涯現状維持だ的なこと思うのは、言ってしまうと、どうかしてるとしか思えない。 …人をよく見ているとわかるがそういうもの。 保護者が別の人だったら、全く違う形になる。 保護者がどんな考えの元で動いているかに応じて自分は全く違う人生を歩む。間違いなく。 あの人が保護者ならおそらくああなって良いのに、 はたまたあの人が保護者ならそもそもああだっただろうのに…みたいなことを思うことがある。 自分の保護者は自分にとって有益な気質を持っていなかった。 自分にとってはそうですが、誰かにとっては有益。 本当にできない無知な人の保護者には向いている。 いろいろ残念。 上の立場の人がいないとその人の天下。 ほとんど何をしても何の仕打ちにも遭わない。 怒る人、注意する人がいないですから。 何が良くて何が悪いかをある程度自分で決めれてしまう。 下の人からすると憧れる立ち位置。 自身を悪いようにはしないですから、 同じことでも自身がする分には良い、他人はだめ、そういう腹立たしいことになるケースはありきたり。 何でも自分で決められる、自分でやれる、好きなようにできる…上の立場になったことがない自分からすると非常に羨ましい。 だが天下を手にしているその上の立場の人は「自分でどうこうするのは大変だ面倒だ」と嘆いたりする。 自身の能力に自信がない人などはそうなるのか? 人から合意を得る必要なく思い通りに行動することが許されている。 それが凄く幸福なことだと思わないのか? それとも幸福なことだということに気づいていないのか? 人から合意を得ることを必要とする場合、対立してあらゆることが思うようにいかず、嫌な思いもし続けることになる。 誰でもそうなる。 家族は自分の守り神ではない、心のオアシスではない。その全く逆。 ストレスのメッカ(中心発信元)。文句なしでそう言える。 わかってもらえないのでこの際言いますが(どうせこれもわかってもらえない)、自分を1番不〇にしているのは家族。 家族も(言い方は違うが)ネット上の人に匹敵するほど不愉快な誤解をしまくり。 自分のことを理解していないですから、色々すれ違っていて何でも根本的思っていること、問題視していること、願っていることが違う。 理解してもらえないと何にもならない。 家族に対する想いは色々あるが、最も大きなものは「恨み」。 今やそれが圧倒的に大きい。 今となってはもはや家族と話したいとは到底思わない。 いくつもの恨みがあり、その上常に失礼不愉快極まりないことを言い続け、 根拠もなくかってに動物のような存在にし、考えを改めようとすることもないような人と話して仲良くなりたいですか? なりたくないでしょう。 家族が唯一の気をつけないといけない危険な存在。 わかっていないのに、自分を強制的に動かしてきますから。 自分を巡って大騒ぎもする。 「一般的な悪い人」などほぼ敵ではない。 家族が思っているような超絶弱者ではないから。 普通かそれ以上の人間とみていい。 できないと思われているからできない。ずっとそうで、いまだにそう。 で断じて「できないんだ」というその考えを変えない家族は自分にとって「最悪」と言える気質。 運悪く家族に外れてしまった。 相手に良いことをしているつもりでも、間違っていてその相手が良くなかったら、その人はそんな良く思わない。 そうでしょう? 良いことをしてあげてるから良いやつと思え?←わかっていない。 理解してくれていなかったら、良くないと感じる。 自分のことは自分ならわかる。 自分は、自分をどうかしたいのではなく、知人をどうにかしたい。 知人はひたすら「できない」としか思わないが、できるできないの話ではない。 話すと驚かれたり今の生活環境に影響を及ぼしたりするからあれなわけで… 逆に話さないとおかしく思われる場面なら、むしろ話さないでいることができず、話すことになる。 現にそれで話せた。 1人の時、外国人の集団に捕まって強制的に部屋に連れ込まれ性行為をされかけたが(2018年)その時、 その人らの問いかけに答えたりすることができた。(口で) (ちなみに、お金を持っていないことを示したら釈放してもらえた。 ↑これが他人と話せるという絶対の証拠。〈ではない?〉  その場面を動画で撮影して見せるくらいまでしないとだめなのか?それでもだめかもしれない) 座れるようになった時などもそうだったが、「できない」ではなく、 逆に「できる」と皆に思われてしまえれば、むしろやらないでいることができなくなり、できるようになったりする。 自分のこのこと(事情)を知らないでいてくれたらできるので、知られていない方が良い。 事情を知っている、家族と連帯しているとなるとそもそも何もできないので何にもならない。 「自分のことを知らない人」は普通のノリで話しかけてきますが、話しかけられて無視(無言を貫く)などということはむしろできない。 そんな悪いことをするのは逆に無理。ずっとそうだった。 ある意味もう克服しています。 家族や家族と繋がりのある知人以外の人となら間違いなく話せると思いますから。 「克服しているにも関わらず、家族が存在することによってそれを封じられてしまっている」感じです。 そう表現できる。 もし知人に驚かれないと確信できるようになったとしても、もはや今の知人の前で本来の状態を見せることは難しいと思う。 なので単に「自分で自分を戒めているだけ」の状態とも見て取れる。(だから何?という感じ)


                 


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知人と話すことも完全に諦めているわけではありません。 でも知人(特に家族)と話すということは物凄く難しくなってしまったことです。 知人に(1度もorもう1度)声を聴かせることなく終わってしまったとしたらそれはお互いにとって凄く悲しいこと。 難しいですが何とか…という思いはあります。 会話の練習などは「知人と話すことができるかもしれないから」というその思いもあってそれでやりました。 いきなり家族と話したりするのは無謀。 これまでの知人がいない環境になり、そこで健常者の状態で長らくやっていけたら、 いつのまにかこれまでの知人とも話せるようになっている「かも」しれない…みたいな風に思っています。 一時死んだと思ってもらえたら良い。 1番難しいのは家族と直で話すこと。それができるくらいならもう何でもやれている。 最低限、家族とだけ会話できれば良いと家族は思うでしょうが、「家族とだけはだめ」なわけです。 以前は(普通に)逆でしたが、今はそうです。 見知らぬ人だと偽って話すようなことならできる可能性がある。 もしその「かも」がなかったらその手しかない。 勇気しだいでできることとできないこととがあります。 その勇気しだいでできることをクリアしていくことにより、 その勇気しだいでできることの幅が広がっていくようなことがある「かも」しれない。 だから道が開ける可能性を信じて一応いろいろクリアしようとしているわけです。 クリアしていくことで最後には家族と直で話すことができるかもしれないと思っています。 「勇気しだいでできること」の訓練なら無意味とは思いません。それは大げさな訓練は必要なしでできる。 死ぬまでにはこれまでの知人達とも話しをすることを約束したい。 このままで終わったら無責任です。自分でも自分を許せません。 自分はそんな冷酷な人ではありません。(ネット上の人の場合はそれを冷酷だとは思わなそうだ) 知的障害者で何も理解せず分からず、何も感じられなかった何も覚えていないなんていうこともないですから。 ↑それなら「しかたない」となりますがそうではないわけです。 もしそう思われて「しかたない、いいだろう」となってしまったらそれこそ悲しい。。 いままで常に訓練をさせられ続けてきましたが、無意味な訓練です。 無意味ではないと思うのはその「勇気しだいでできること」の訓練です。 中途半端な状態は経由できません。本当は何もかもできるからです。 それなりにできる中途半端な障害者の状態を演じるという変なことはできません。 根本は心にあります。 もし、「少しずつできるようにする」としたら、それは相手を驚かせないようにするための策略です。 「訓練」とは違う。 もし知人の前でできないことができたとしても、それは「ついやってしまった」ということになって赤面するだけ。 「できた!」なんてならない。 そして注意するようになるので、同じことはもうしなくなる。 「できる」というのは「やればできるようになる」という意味ではなく、言葉通り「すでにできる」という意味です。 全て言葉通り。 できるといっても、どうしても並み以下だという前提から できることを探るような過程を踏まれるのでそう簡単に理解させられず厳しい。 そんなで普通なら眼中に入れることのないようなこと(余計なこと)を眼中に入れられる。 そう、できる分かるなどと言って色々書くとなぜか逆にできない分からない馬鹿だと思われる傾向にあるが、 本当ですから、そう書いています。 リスクを追ってでも本当のことを書く。 できない(ふりをしている)「時が」あることで、よく障害で本当にできない人と同類と見なされますが、それはおかしい。 そう思いませんか? 知人からしたら本来でない自分が自分の通常体で、 本来は魔法の力によってパワーアップする的な感じなのかもしれませんが、そうではない。 健常者(レベルの高い人)が障害者(レベルの低い人)を演じることはできますが、逆は無理。 レベルの低い人がレベルの高い人の真似はできない。 そう考えればわかるでしょう。 本来が通常体。 「できない」ではなくて、「できない(ふりをしている)〈時が〉ある」というのが正しい解釈。 ただ単に「話せるように」などと願っていてもだめ。 そこで考えた末こういう答えに行き着いたわけです。 本人にしかわからない理屈。 こうなったことにも理屈があります。 理屈を無視して単純に「話せるようにしろ」「訓練をしろ」と言い続けていたらそれこそ一生そのままになる。(そう思いませんか?) 全てを否定する人は理屈、理由、理論という概念は存在しないと思う人でしょうか?(よくわかりません) どうすることでやれるのか?どうしてこういう状態になっているのか? そもそもどうしてこうなったか?本人なのでそれをわかっています。 1番わかるのは本人ではないか?(わかっていない?違う?) 理論上そうなることはそうなるのだからそうなります。 納得しないというのならそうならない理論があるのでしょう。 それを言ってくれないとどうにもなりません。 会話を絶やさずに話し合えたらどうなるか?それは未知数。 本来ではない状態の時に関してだが、もしも←わざとやらないでいると思い込んでいるだけで、 やれない(そうしていたことにより本当にそうなっている?)のだとしても何だとしても何だろうと… 目指すことは同じです。 話しをすることなどに予め慣れること、相手に自分が話している状況に前持って慣れさせること、など、 勇気しだいでできることを制覇することが鍵。 やっても支障ないことをやろうとしてもやったことがないからか勇気が出ず “すんなりはやれない”そこが少しあれなところだとは思います。(↑やってみてわかったこと) あえて問題点を挙げるとするとそれ。 それは克服できるはず。 あと単純に「知人に見られると何もできなくなる」という点があることで、普通でないと見ることができます。 でもその点があっても、普段(本来)は普通なので、普通と言われ続けていました。 自分だけがそう思っていたというわけではなくて、知人皆そう捉えていました。 本来はそうなのでそうだったわけで…その本来の状態が変化したわけではない。 今は普通でないというのならどう説明つけるのか? 今でも実はできることに感づいている人は皆“本当は普通”と言います。 健常者であって病人でもあるという見解がしっくりくる。 買い物に関しては、一言で言うともうできます。(論理的結論として) 普通のやり方でできる。 ただどうしても必要だと思うものがない限りわざわざやりません。 かなり精神力を消費すると思うし。(自動販売機なら精神力不要) 1度できれば、その後は軽々とやれる…ということにもならないことがわかってきたし。 残念なことにこう言っただけではおそらく「信用」してもらえない。 人は否定し合うもの。 人を動かすためには「証明できる事柄を作る」ことも必要。 無意味なことをする過程を得なければならなかったりする。難しい。 「全て」の発言が不快で「全て」間違っているとされる。 ネット上の人にはその言動の悪さと最悪の思想を持つことで口封じされてる的なことを言われそうだが、 リアル知人からしたら???です。 本来の時を知ってる人が聞いてもそうだと断言できます。 謎ですし、それとこれとは結びつかないので、結びつけないこと。 自信があることが逆に問題ということも考えられるのか? ネット上の人は誰しも全力で自信を無くさせるような嫌なことを言ってきますが、 自信を捨て去ることが良いことだと思っているから、というのもあるか? 自分は正しい(全て人のせい)などとは一言も言っていません。 かってな解釈はしないでください。 「何もかも全て自分のせい、全て自分が悪い、自分の全てがただ悪い」ネット上の誰しもからそう思われますが、 仮にそうでも“だからどうした”という感じ。 元をたどっていくと色々な人に責任があるし、誰に責任があるかは見方によっても変わる。 誰にも責任がないとも見れる。曖昧なもの。 そんなで当方「誰のせい」だとかそういうことを考えることはあまりない。 もう1度言います。誰のせいだとか、そういうことは考えない。 ほとんどコイツのせい、アイツのせいだとか思っていない。 そう思うような「考え」が単純な人ではありません。 「奇跡の如く奇跡の不幸が連鎖する」 現状打破へと進展することをやろうとすると特にそう。 理論的に説明できることしか信じない派ですが、もう幸福になってはいけない運命なのだとしか思えなくなってくる。本当に。 初めてのことと初めてのことが重なり合い、信じられないようなことになったり、 大事な場面で例を見なかった想定外のことが起こったり、 あることが起こってはいけない唯一のタイミングで、そのことが起こるようなことが何度もあったり、 災難が災難を呼び、その災難がまた災難を呼び、その災難と災難と災難がまた災難を呼んでとんでもないことになったり… そういうことがある。 これがもしも仮病だったとしたら、自分より凄いかもしれない…と少し思ったり。 自分は廃人とは言えない。(そう言えそうになることもあったが)今の定着した状態はそこまでではない。 普通の精神状態なら長年精神異常者を装い、何も発言せずにやり通すことなんてできない?できますよ。 あと「馬鹿を装うお馬鹿キャラ」なる人がいるようですが、分かりやすく言うと“それに近い”ものもある。 たいてい装っているのかどうか定かでないが、知的障害者と言われたりしている。 馬鹿のフリをし、本来を見せられない。即ち馬鹿を装うそういう人は(装っているとして)本当に障害者ですか? 自分がそうだと言うならそうなる。 A病だB障害だC障害とD障害だ認定だ脳が機能していない脳が損傷している欠陥がある何も知らないだの時が経つにつれ 色々言われたり考えられたり推測されたりするようになったが、馬鹿馬鹿しい。 これまでの全ては、ただの演技ですから。 真相を知ったらいかに馬鹿馬鹿しかったかがよくわかるだろう。 (↑今までしてきたことの何もかも全てが演技だったという意味ではありません。  常識的に考えてください。そういうニュアンスではありません。  このページの内容の中で書いているわけです。  自分自身のこのこと〈本来ではない状態〉に対して言っています) 「知人の前で演技をする障害」がありますか? 知人は「知人の前で演技をする」だけだと思っていない。 真実は「それだけ」なのだが。 知人はそれだけだということが分からず、かってに自分を既存の色々な障害の枠に当てはめ永遠と無意味なことをし続ける。 皆まんまと演技に騙されて無能と思っている。 家族らが思っている自分の能力は実際の1/20程度。 毎日見ていてもそれ。 このままだと一生騙され続け、真実は見抜けないだろう。 本当に自分はただ障害者のフリをし続けていただけ。 この現状はありえないようなもの。それをわかっている人はいない。 自分は障害者を装いますが、普通を装うことはありません。 そのようなことは言っておりません。 装うも何も、何も装っていない状態が普通(健常者)です。 ある人から見た自分の普通がおかしな自分になってしまったら、おかしな自分でいざるを得なくなる。 そういう意味で常に「ある人から見た普通」を装っているとは言える。 その普通は普通ではないおかしな自分。おかしい人を装っている自分。


                 


   現状打破法一覧   
すでに言った通り、必ず現状打破できる方法があるわけですが、誰もそれを実行させられない。 そこで効果のあるかもしれない(と思っていた)ことの具体例(現状打破法)をまとめてみる。↓ やってみたことにより、「何かためになることに気づけた」ようなケースもあったので、絶対無意味とも言い切れない。 ○=自分で実行可能 △=他人の協力が必要 ×=家族の協力が必要 ?=検討中 ・以前の自分に戻ったらどうするかを具体的に考えてもらう ×  今の通所(させられている)施設に関してどうするか?どこでどう働くか?どういう流れでどう生活していくか?など。  常時本来の状態になったら、そうなった日以降、そういう場所は場違いなので行けません。(比較対象外の人達のいるところです)  以前の自分に戻っても誰も困惑することがないような流れを予め考えておく感じ。  でも場面に応じて違うのに、辻褄が合うようにするためには  あらゆる場面(全ての知人の前)で同時に本来の状態でいれるようにならないといけない。  「今の環境のままで常時本来の状態になれ」と言われてもそれは物凄くハードなこと。  (比較対象外…そう言ったってどうしても比較して見られる…   そういう障害者と比較して見て称賛したって全く嬉しくない。ただ呆れる感じ。   比較していること自体がおかしいですから。   普通なら称賛しないようなこと)  通所施設の詳細は言いません。  手帳のこともそうですが危険ですし、(個人として)屈辱的なこと(黒歴史すぎること)には触れたくない。  通所施設など全て行く気がなければ行こうとしたこともない。「1度も」ない。  行っているつもりもない。(それ以前の教育系(を名乗っている)の施設も同じ。)  通所しているつもりは一切ない。  行かされてしまい、行っていることにされてしまっている。  かってに登録され肉体を持っていかれ(連れていかれ)、形式上「行っている」という形が作られてしまっている。  通所施設など知らない。  にも関わらず皆自分は行く気があり、本来なら自分で行くものかと思っている。  笑えるようなことだが、空しくて笑えもしない。  こんなヤツはほかにいないだろう。  昔から当然の如く通っている「THE・障害者施設の人」ではない。  知人は誤解が進み、今やそうさせたかったと思っているが。  行く気でいることもいたことも一切ない。  通所しているつもりになったこともない。  通所している人間ということを認めてもいない。  しているとしたらそれは自分ではない。  操られ、させられていることを自分のしていることにするのは本当、失礼。  自分なら絶対にしないわけ。  一溜りもない。。  だが操る人、周りの人はそのことを、わかってもいない。  誰も何もわかっていない。  家族らにさせられていることをしているつもりは一切ない。 ・自分と同じような人を見つける ○  ここまであれな人はほかに存在しないでしょう。(この世にただ1人。おそらく誰しもそう思う〈これは誰も否定しない〉)  障害者を装っている人はいるにしても、ここまで1日のほとんどの時間、(しかも小1から)派手に障害者の演技をし続ける人はまずいない。  このような人はいない。ほかに「いない」と言える。  だが絶対とは言いきれない。  “もしも”存在し、その人と交流することができたなら、互いに色々良いことがあるはず。  もしこのような人をほかに知っているならぜひ教えてほしい。(いえ、教えてください)  “ある程度”共通点のある似通った人ならいくらでもいる。  最悪そういう人でも良い。  同様な人に希望を与えることもしたい。(その想いから生まれたページがこれ)  このような人はほかにいない…  それどころか同様な思想を持っている人も存在しない。  そんなで自分の言うことに共感してくれる人というのがいない。  この世にいない。  全てを否定される。  ですから、心の支えが何もない。  いくら心がボロボロになろうとも、ひたすらそのままでいるしかない…  できすぎることで悩む、空気を読んで力を抑え、その力を隠す…そのような人はいない…  と思いきや、ギフテットの人は自分同様「自身の能力を隠す」(!)傾向がある模様。(動画聞き流しサーフしている中で知った)  普通気にならない些細なことが気になってしまうだとかそういうおかしなことは自分にはないが、  ギフテットの特徴には当てはまるものが多い。  身近な人がそのことをわかっていれば、全然違った(今でも違う)のだが。  傍からは全くそのような人だとは思われてない。  傍から思われることは決まって「頭が悪い。どこかが悪い」。 ・意見をもらう △  このページを他人に見せ、意見をもらう。  すると何か気付くことがあったり、力になってくれる人が現れ道が開けるかもしれない。  ずっとそう思っていた。  この文章を公開する日にありつけてしまった今、道が見えなくなりつつある。  …誤解されて的外れなことを言われるばかり。  なかなかアイディアは得られない。  的外れなことをあえて的外れだと思わないようにするよう、意識しているがやはり的外れでしかない。  「同様の人」や、「専門医」に意見を聞いたらどうか?  全てここに書いたので面倒なことはせず、このページを見せれば良いだけになる。  でも後者は厳しい。  そういう社会的地位が遥かに上の人に当ページを“自ら”見せる勇気はない。  誰も意見を掲示板に書いてくれないので返信を兼ねてここにやたらと色々書くことにもしてしまい、このような有り様。  こんなに恥ずかしいページはなかなか見せられない。  でも現状打破の方法を1番わかるのはやはり“自分”。  ↑↓これだけアイディアがあれば十分なのでこれ以上にそれを得ることに重要性はさほどない。  何かを「誰かに聞く」必要は「あまり」ない。(そう思う)  前者を実行したが、結果なかなか当ページへのリンクをクリックしてもらえない。  唯一〇i〇iからは人が入ってくるが、  そこは前々から自分を知っているス〇ー〇ーの人が入ってきてしまう可能性が高い。  これは、そういう人からしか意見をもらうことが(反応を見ることが)できないということを意味するのか?(そのようでした)  それ以外の人の反応を知ることを1つの目標に掲げています。(できれば同様の人がいいが、そうでなくても構わない)  もし何か危険なオーラを感じられたり、緊張感を感じられたり、  近寄りがたい印象を出していたりしたとしても、反応をもらえないと何もわからない。  まず何か一言でも良いので言葉をもらえるとありがたい。  簡単なようで難しい目標。  そう言ったらそこからではなく、検索でヒットしやすいある別の場所から入ってくるようになった。  そこから来た新参を装うのはやめてください。  (そうしないと見向きもしないのではないか?とかってに思い、そうするのでしょうか?)  そうされ、“もし”見抜けなかったら「前々から自分を知っている人以外の人から意見をもらう」という  その目標を達成したことにしています。  そのまま事実上達成していない状態で終わりにしてしまうかもしれません。  現状打破に支障をきたします。  その後、前者(同様な人等に意見を求めること)を15回前後はやりましたが、返答が返ってきたのは僅か2回。。  その2回も本当に一言だけで終わりだったり当ページは見ていなさげだったり…。  目標を達成した?とはいえ、まだ微妙。「どう思われるのか?」それをあまり確かめられていない。  反応がない場合、「嘘を言って人を弄ぶクズと思われ嫌がられたor変な危険人物とみられたor  どういうわけか知らないが怒りや憎しみや嫌気や不快感を持たれた」  (よって近寄らないようにしようとした)ものと(曖昧ながら)判断します。  (そうは見えないようだが)怖さを押し退け、勇気を振り絞った上で、全力で言葉で投じているのに  かってにそんなふうに思われてしまうというのは本当に悲しい。  相手の好感度下がります。  …本当にそうなら書き込みを消すなりしてそれなりの反応を示してほしい。  そうしてくれれば曖昧にならず、すんなり諦めがつく。  「お前の言葉が悪いんだ?」  どんな文か見てもいないのに堂々とそんなことが言うのは失礼でしょう。  自分は悪いやつとされているので、そういうことにされる…  でもまだ何かがいけないのか?いけないなら何がいけないのか?それで頭がいっぱいになる。  怒ってるとしたら、嫌ってるとしたら、それはどういうわけで、どんなふうに…?  数年かかり、ようやく目標達成。(この通り→質問)  しかし1人から反応を得るので精一杯。  「反応を得る」そんなに簡単そうなことがどうしてこんなにも難しいのか?苦労を強いるのか?  笑える。  特に驚いている様子もなく、わりと素っ気ない反応。  たいしたことはなかった。  大多数の人はこういった感じなのか?  こういった他者の反応は役立つが、結果、たいしたことなかった。  1人でいいので「同様な人の反応」も見てみたい。  ネット上で繰り返し言葉を投げかけてきたり、返信を続けてくれるような人はほぼいない。  そういう人が出てきたら奇跡。  奇跡のようなことと思っていい。  出てきましたが、信じられないようなレベルのこと。  もともとそうでしたし、今改めて思ってみてもそう。  そんなでネット上で「悪い人」とされる人につきまとわれるようなこともないものと思っていい。  それがもしあっても、自分は無意味だと断定できるまで話したら見切り排除を試みます。  実際、そういうことがあり何度かそこに行き着けています。  嫌な想いをし続ける、尚且つ無意味(メリットなし)、なのに拘ってそういう人と付き合っていこうとし続ける…  そんな訳のわからない意味深なことをする変人ではありません。  変な誤解しないでください。  嫌なことを嫌なのにやり続けるはずありません。  「自分だけ」は「本当に」誰しもから避けられる。  どうして無視されるのか?反応、返答、言葉をもらえないのか?  その理由が知りたい。  「自分で考えろ?」  どれだけ考えていると思ってる?  考えられることは↑の嘘を言って人を弄ぶクズと思われ以下省略。  こういうことは教えて(というか反応を示して)もらえないと認められない。断定しきれない。  正解がわからないと断定できず前に進めない。  不確かなのにかってに解釈して思想を固め言動をしていったら誤解だらけになり兼ねない。  それで良いとは思わない。  だから理由を教えてほしいと言っている。誤解しないでください。  誤解はだめだということが自分にはよくわかる。 ・知人に予め本来の自分を知ってもらう ×  能力や知識のことなど。  そうすることで驚かれにくくなり、ある意味本来を見せやすくなる。  (自分の今の本来のことをよく知っている知人は誰一人いない)  だがそれはほぼ無理な話。  ここで散々言っているようなことを“家族ならいける例の手段”で予め伝えても家族は信じない。  信じないですから、本当に驚かれることは避けられない。  驚かれない環境を作ってもらうことはできない。  信じない(信じられない)ようなことが事実なわけですから相当驚く。  家族は自分が今話しても何とも思わず驚かないものと思っていますが、それを信じてくれない限り、そんな訳ない。  話せることをわかっているから話しても驚かない、動けることをわかっているから普通に動いても驚かないだとか、考えが甘い。。  知識や能力、人柄、その人に対する想いなどは明らかに全然わかっていないわけです。  話したらそういうことがわかってしまうでしょう。  全然障害者ではないこともわかってしまう。  間違いなく仰天します。  できるようになれる素質がある覚えらる素質があるではなくて、すでにできるし覚えてる。  だから驚かれる。そう言ってる。  改まって人に教ることをしないと、人は絶対何も身につかないなんていうことはない。  あと話したら全て解体させる。  家族と話さなくなったあとに家族が自分に対してしてきたことは、そのほとんどが自分の意志にそむくこと。  そうしてきたから、そうなるわけ。  そうさせずに話すとか、ない。  家族が思っている自分は消える。  皆こういうことも何もわかっておらず、今話すことがどういうことだかわかっていない。  話しにくい訳もわかっていない。  なんかそうしたい、なぜかそうしたい、拘ってそうしたいとかそういうことはない。  理解していないのに、間違ったことを固く信じ、それに基づいていろいろ決められたりされ、本当やりにくい感じ。  毎日見ているのにここまで理解していないというのは本当に信じられない。  「理解してもらう(自分を知ってもらう)」ということは重要。  何せそもそも理解してもらえないことによって現状打破を妨げられている。  それを妨げているものは知人。  なぜ妨げているのかというと自分を理解していないから。  理解してもらえていないから、誤解されるし腹立たしいことも言われ続けるし  軽視されるし驚かれるしダメージ追うし不幸…でもある。  だが理解させられない。  言葉では厳しい。  「自分を知ること」を重要視し、それを無意味だと思ったり、恐れたりしないようにしてもらえると良い…  自分は知人がいなくなれば何も問題ない人間になります。  知人がいることによってこういう人間になっています。  「知人がいるとできない」それだけ。  それを信じて理解してほしい。  自己流の予測をもとにああだこうだ言って無意味路線へ持っていかないでほしい。  このような人は自分しかいないですから、改善するためのマニュアルとか、この世にないと思ってもいい。  かってな解釈で何かの障害とし、それ相応にどうこう言われると無意味路線へ行く。  他人にわかることではない。  「これまでの自分が失われてしまう」ようなことがあったら、人生が終わる以上に屈辱かもしれない。  病気か老化か何かでそうなることもありえなくはない。  能力が落ちたり知識が失われたり本当に障害者になったり本当に世話人がいないと生きれなくなったりしてしまったら、  その後に本来を見せても「知人とは比にならないほどの能力があった」ことを信じてはもらえないだろう。  能力が落ちたら最後、どう足掻いても誰からも信じてもらえなくなり、凄まじい屈辱を味わうことになる。大いに悔やむ。  だから極力、体にダメージは与えたくない。  今のうちに何とかしたい。  せっかく身体的状態も最高潮なので、とにかく何かしておきたい。  何かしたい。しかし囚われの身のような感じで何もできない。  家族を始めとした自分を知る人は皆、自分のことを何も理解していないわけです。  自分がいなくなったら、残るのは知人の中にいる自分とは全く違う自分ではない自分。  自分の恥の自分。  自分がいなくなったら自分は本当にいなくなる。  誰の心にも自分はいない。哀れ。  皆、自分は生まれてから今に至るまで長い間常に呆然としていて、何もなかったものかと思っている。  他者には何も見えていないし、社会上での結果などは何もないとはいえよ、  毎日見ていれば呆然としているわけではないことなどある程度わかるような気がするが、本気でわかっていない。  家族の心には自分ではない自分しかいない。  自分はほぼいない。  …恐ろしい。  何も得ず何も生み出さず思考せず生きてきた人間ではない。  もともとは家族を始めとした周りの人に「軽視」されるから、本来を出せなくなった。  だが家族は絶対にそれをわからない。  今更言っても難だが、今でも「軽視」されていることで本来を出しにくい感じなのは確か。  家族は自分を理解していないものかと思い込んでいる、自分は誤解している、ではありません。  自分は何も表に出していないが、家族らは日々思いきり表に出している。  自分と違い、基本何でも表に出してモヤを発散している。だからわかる。  「言っていること」からして本当に理解がない。  理解がないことは明白。  理解させないといけないというのがまたもう嫌らしい。  大人なのに社会のルール上、保護者に理解させて、自分を動かして(操って)もらわないといけないだとかいう。。  人間やめたいと思える。  家族が本来を見て真実を知ってしまったら、自分に対していかに無駄なこと、馬鹿げたこと、  見るに耐えないようなこと、いけないことをしてきたか、させてきたかが、わかってしまう。  それもわかってしまう。  普通に本来は見せない方がいいかもしれない。見せれない。  何も言わないということは、「知っているかどうかわからない」ということ。  「知らない」ということにするのはおかしい。  どうしてそうするのか。 ・どこか遠くで1人で暮らす ×  以前はあれだったが、それ相応の歳になったことで、これが可能になった。  人と接したりすることに「最大限に慣れる」と思うので、  地元に戻っても本来の状態のままでいれるかもしれない。(それでもその可能性は低い)  2度と戻らない、知人も来ないなら絶対的に現状打破可能。  (自分のことをちゃんと理解しているなら、それで現状打破できることが〈その原理が〉分かると思います。   「知人がいるからできない知人がいなければできる」それだけですから、それで現状打破できるわけ。  「2度と戻らない」というのは正しくない。  「2度と戻らない(知人と2度と会わない)「覚悟」を持って」というのが正しい。  もしもだが知人とも話せるか?という気持ちになってきたら話しに戻る)  だがそれは良くない。普通良いとは思わない。  なぜって?「家族と縁を切ってしまう」ことになるわけです。(それでいいと思いますか?)  普通なら自立するからといって、もう2度と会わないということはないです。  普通のそれとは違うので自分の場合「縁を切る」ということになる。  年をとって大事な親族が誰もいなくなったら別に良い。  「心配してくる人がいる」ということが大きな壁となる。(本当は心配無用な人です)  「現状打破(縁を切る)」と「家族との縁」。  選ぶとしたら、個人としては前者。(今の想いはそう)  演技のようなもので難しかったりするし恥ずかしいし、この先も現状のこんな状態ではやっていられない。  だが自分でそれを望んだからといってどうもできない。何にでも言えること。  (このページを普通に読んでいればそれがどうしてだかはわかるはず)  「縁を切る」ということに家族が賛同してくれないといけない。  だから難しい。  まず「縁を切りたい」という意思を示すのが難しい。(例の方法で示せないことはない)  示せたとしても、「1人で生活できる」とは到底思ってもらえない。  もしも思ってもらえてもそれに賛同はしないと思う。  皆絶対の持論を持っている、ナメられるで信用してもらうこともできない。  絶対の持論は持つなら「自分の中でしか通用していないかもしれない」ということ視野に入れてほしいもの。  言ってることは絶対だ、絶対できるという証拠となる事柄を作ったりすれば多少家族の信頼度を上げることができる。  (なぜか証拠にならず、だめな場合もあり)  「証拠となる事柄を作る」というのは実際自分自身にとってはあまりする必要のないことなので、なかなかする気にはなれない。  「ある日突然失踪して2度と帰らない」ということをやれば行けますが(もちろんかなり下準備が必要)、  もしメモを残していったとしても、とてつもない大騒ぎになってしまいます。無理です。  とにかく家族がネック。  これは場を変えれば治ります。  小学校のころなら転校することで治せたかもしれない。  ただ、今や長引いて家でも学校と同じに近い(同じではない)状態になってしまったわけです。  家(家族)も変えないといけない。  そういうことです。  そこまで重くなってしまった。  情報が家族を仲介することになる限り大きく変わることはない。  この絶対いける方法をすぐに実行に至らせることは難しい。でも現状打破が絶対に無理、不可能ということはありません。  絶対ではないがその他にもいける可能性のある方法があるわけです。  可能性があるのだから不可能とは言えません。(当然)  絶対いける方法も実行に至らせることは難しいですが「難しい」です。  ネックである家族をなんとかすれば不可能ではない。  「遠くではなくしかも一時的にだけ」で実行してもらえることはありえますが、その場合、  形跡が残ってしまい、やりにくい形でやらされてしまうかもしれない。そこが多少怖い。  そうならなければ、まずやれる。  とりあえずはお金の管理の流れ、食糧確保の流れだけでも確立させれば良い。  どこでどのようにどうするか?具体的に決める。  具体的に決める必要がある。そうすれば現実味を帯びてきて実行できる。  手助けを入れられると逆に厳しくなる。  知人に再度会うとなると、その会う時のことを常時視野に入れ、その時に備え続けているような形になる。  ホテルは従業員がいるのでハードルが高め。  ハードルが高すぎて「無理な領域」には踏み込めません。  どういうことなら良いか?どういうことはだめか?決まりがあり、  できるか?できないか?はやってみる間でもなく自分で分かるわけです。  どういう形をとられるか?そこがポイント。  妨害しているもの(天敵・厄介者)は家族ですから、家族の動向にかかっています。  「人並み以下なことはない」「知人がいなければ理論上動ける」わけですから、それだけです。  無理な領域に踏み込まないとだめだというなら違う。  この案は無理な領域に踏み込まずにいけるので絶対いける。  事実上問題なことは、皆が予想するであろう問題とは異なります。  問題視していることがないわけではないが、それはどれも皆からすると笑ってしまうような程度のことです。  皆はまず生きれるかどうかを気にし、こういったことはもう思い浮かびもしない。考えつかない。  信用せず自己流解釈で何かしようとした場合、無意味路線を走り続けるだけになります。  口座や色々な契約は家族の管理下にあるため軽々と手を出せない。  履歴が残るとだめ。  形式常識ルールが限りなく多い。誰が考えたのか現在の世の中で人として生きるのは関門だらけ。  大人になれば好きにして良いのかと思いきや、そうではなかった。  誰しもが自分自身が正しいと思っている(自分に否は打たない)ので、対立して上手くいかない。  (自分自身が正しいと…省略←誤解され、お前がそうだなどと散々言われますが、   これはこちらから相手に対していつも言いたいことです)  独立できない世の中だということがまたネック。  なんとかして密かに自分で口座を作ることができ、行けそうな場所にATMがあったとしても、  ネットがないとポイントサイトで稼ぐこともできない。  ホームレスとして生きるのも自分のこの症状からして初めは楽でない。  森で野生動物のように生きるなら楽々行動できるが、違う意味で過酷。  でも何かいい手があるはず。  誰かの力を借りなければならないのか?極力それはしたくないし、人はそう簡単に都合良く動いてくれない。  支え合えうような関係になるとまだいいのかもしれない。  無人のコンビニがあればいいと思い、調査したところ、海外にはすでに存在する。  無人スーパーは国内に1件?だができている。  食品自動販売機なら近場にある。  最初に暮らす場所はそれらの近くだと非常に気楽。  いずれはどの店からも店員がいなくなると言われている。  家族の元を離れれば突然本来に戻る、という感じではありません。  まず小学校入学時以降もほとんどの時間本来の状態でいたわけですし、今も本来の時がそれなりにあります。  知人が見ていない場面なら何ともなく行動できているわけです。  知人にずっと会わなければ、本来の状態もずっと続く。  そういうことです。  突然未知の領域へ行くような感じではありません。  ×場所を変えればできる ○知人が見ていなければできる  場所(環境)を変えること自体には意味がない。  「今の自分は本当の自分ではない、本当の自分を取り戻せ」的なことを言われたりもしますが、それは誤解です。  今もいままでもそうですが、知人がいない場面になれば本当の自分になります。  取り戻すも何も、今の自分は本当の自分でもあります。  それで「知人のいない環境へ行くことで突然、人が変わって本当の自分になる?」的なことを思われたりもしますが、  それも意味がわからない発言です。  「知人がいない場面」と「知人がいる場面」は必ず毎日ありますから、毎日取り戻したり失ったりしています。  知人のいない環境へ行った場合、人が変わって本当の自分になるではなくて、「いつもの本当の自分がそのままでいる」。  それだけのことです。たいしたことではないです。  必ずしも遠く行かないといけないということはない。  「知人に気付かれない」ならそれで良い。  もしこれが絶対だめだとしたら、家族の状況が変わるか、気が変わるか、認められるまで待つ。  その間現状のままで多少でも現状打破に結び付くことを色々やる。知人の前で何かできるようにはならないが。  予想だと絶対だめというか、答えられず終いだろう。(実際だめ?なように見える)  「そうなり、そうする形が最も現実的」なのか?  何か、今の自分は自分で責任を持つことができないとされる。  おそらく障害者として障害者を援助する人達と結び付くことをしたから。  例えば家出をやって失踪し例の色々な施設をやめることになっても自分自身の責任とはならず、  家族の責任となり、家族が刑罰を受けることになる(と言う)。  大人になった意味がない。  30,40になればさすがにあきれられて…などと序盤に書いていましたが、今やそれはなかった。  手帳さえ手にすればどんなに呆れられようとどんなになろうと何があろうと  何をしようと、働かなくとも世話をして生かし続けてもらえるとされる。  何もせず楽したい人にはおすすめ。  国に守られ絶対的。障害者は神のよう。  「できない人」と認定させてしまえばもう何もしなくていいわけです。  叱られることも苦しむことも何もない。  世話人は国の命令により世話させられている感覚ですから抵抗できない。  抵抗したら刑罰を受けて人生台無しになるわけです。  奴隷と言ってもいい。何を言っても世話してもらえる。  社会で生きるのに苦悩している凡人の気持ちなど全く分からない、分からなくてもいい殿様。  だが、自分にとってはこの仕組みは非常に邪魔なもの。  この仕組みがあることによって色々妨げられている。  何も言わず何もしないようにしていれば、  何もできない言葉も分からないものと認定され、最重度の知的障害者ということになれる。  誰でも、いつからでもそうすればそうなれるでしょう。  自分が実証した。  そして学校も行かなくて良ければ仕事もしなくていい、  何もしなくても死ぬまで世話人に世話し続けてもらえるようになれるというww  手帳を作られた例のあの時にて自分は人間から動物にさせられた感じ。  動物ですから放っておくと危ない!見張っていないといけない!(他人はそう信じてやまない)  こいつは突然暴れだすかもしれない!路上で突然全裸になるかもしれない!噛みついてくるかもしれない!  物を落とすかもしれない!階段から落ちるかもしれない!窓から落ちるかもしれない!  刃物で人を切りつけるかもしれない!目を離したら車にひかれるかもしれない!  死ぬようなことをして死んでしまうかもしれない!(例え10年そんなことがなくても人によってはそう信じてやまない)  エサを与え続けなければいけない!逃がしてはいけない!粗末にしてはいけない!それが飼い主の役割。  しかし、動物なのに命の重みが人間と同じと定義付けられている。たまったもんじゃない。  役割を放棄したら逮捕!  「どこか遠くで1人で暮らす」↑という名称、良くないか?  具体的に言うと「家族が構ってこなければいい。放っておいてくれていればいい。」それだけ。  場所を変えること自体には何の意味もない。  自分に直接意味のあることはない。  外に出れなくない、外に出ることに意味はない。できないことない。  どうして全然違うことを思われてしまうのか?  人は厄介。  自分に足りていないものはない。  だから自分に直接意味があることはない。  「知人」がどうするか、どう動くか、どう思うか、自分をどう動かすか、どうしていこうとするかが、ポイント。  間違えないでください。  「知人がいると体が動かなくなり何もできなくなってしまう」ではなくて、「意思であえて何もしないようにしている」。  前者なら障害者。  障害ないということは後者。  誰も理解していなし、いろいろおかしなふうに思われていて本当悲しい。  家族の心の問題とも言える。  あまりに理解がないこと、事実に反してあまりに低く見ていること、あまりにおかしく見ていること、  それに基づいた思いから形作られた家族の自分に対する想い・心が自分を不幸にしている。  知人のいない時に、いる時の自分が現れるとか、そういうことはない。  それが現れて予期せずできないだとかそういうことはない。  それが急に現れてできなくなってトラブル発生だとかそういうことはない。  そういうものではない。  なぜも何も「そういうものではない」。  だから「ありえない」。  そういうことがあるかもしれないから1人は危険←あまりに酷い間違い。  「やる」か「やらない」かを意思で選別している。  皆はその「やらない」の方をできないだと思っている。そうではない。  だからやれるかやれないかはやってみなくてもわかる。  知人が思っていることとは全く違う。  敵は知人だけ。  「〈できるという気持ちは持っているけど〉体が動かなくてできない」でもない。(←馬鹿げてる)  できると思いたい気持ちはやまやまだからそう言ってるけど体が言うことを聞かなくてできないでもありません。(←馬鹿げてる)  それ↑はできないということ。  なぜできると言っていると思ってる? ・他人と会話をする △  基本的なこと。  知人でなければ話すことが可能。  上記の通り、一応色々やった。  熱心にやってはいない。  よくよく思ってみると他人と話したからといって知人と話せるようにはなるとは考えにくい。  でもかなり為になると思う。  できれば感覚はつかんでおきたい。  ちなみに他人も、ある程度交流すれば知人になるわけですが、知人になったらもうだめかというとそうではない。  「知人を介して知り合った人ではない」なら、いつまでも本来を見せることが可能。  家族と面識がなければいい。 ・他人と偽って知人と話す ○  自分自身がその知人と話すことに慣れることができる。  さらに、あとから自分だったと伝えれば、相手にも自分と話す感覚を感じてもらえる。  (するとこちらとしても話しやすい感じになる)  かなり勇気がいるが無理はない。何度もやれない。  軽くこれを実行してみた。「自分で」できることは実行可能。  具体的に言うと昔の知人のブログにコメントした。  結果:返答がない。(たいていそうだろう)これでは何にもならない。  と思いきや、返答を得られた。しかし、その次の返答はない。  かつての恨み晴らしを兼ねてビビらせ要素を入れたのがだめだっか?  まあそれでも少し会話した感覚を得られた。以上。  自分だと打ち明けるのは厳しい。  実際の知人の場合は家族に連絡される危険性がある。 ・知人に他人と偽って会話してもらう △  相手にも自分と話すことに慣れてもらえるので良い。  これができたら物凄いこと。本当に気づかなければ可能。  これはどうしてもだめな場合の会話手段でもある。 ・他人に自分を装って知人に会ってもらう △  で自分を装ったその人が知人の前で話したりする。  これでその知人の反応を予め見ることができる。  他人に予行練習させ、自分と接することに予め慣れてももらえる。  すると自分本人?も気楽になり、平気だと思えてくる。  わりと、いいかもしれない。  大人になった姿を知らない昔の知人であればバレない確立が高い。  姿を見せずに電話で自分を装うというのもあり。  それなら今の知人でもいける。  何せ誰も声を聞いたことがない(声を知らない)わけだ。  自分の偽物に成り代わって本物になるようなこともできるようになり、  本当にいけるようになるようなこともあるかもしれない。 ・失踪を装って実は家にいる ○  天井裏や天袋に隠れて、生き続ける人がいる。→詳細  生きれる。  これを自分の家でやる分には犯罪にならない。  家の誰も来ない場所に住み着くなら、入念に考えて計画を練る必要もないが…結局家を出るのと同じ。  大捜索され、大パニックが起こる。  親がいなくなったら、まずこれをやるかもしれない。 ・自信をなくす △  自信があるからこそ、こうなったわけで、なかったらこうなっていない。  自信をつけるのではなくて、なくす。  リアル知人←ならば「変なことを言ってる」と思うでしょうが、これは本当に有効です。  ネットで自分の作ったものなどを見せ、全てをひたすら貶され酷評され続けたことで  知人に見せるのも(たとえ本気が作ったものでも)わりと平気だと思えるようになった。  凄くて驚かれるのではなく、「こんなのは逆に酷くて驚かれるようなものなんだ」  「自分の本性(本来の姿)をもろに見せてしまっても色々酷くて低レベルで驚かれるだけなんだ」と胸を張って言えますから。  「良い結果が出た」と言えるだろう。  でもそう言えるというだけで、リアルだと(凄くて)驚かれてしまうことは確か。  遠回しに言いますが、少なくとも身の回りにいる人達(知人)の能力などは  もちろん分野によりますが色々な分野において自分よりかかなり○○。  (サイトがどうこうではありません。以前はサイトなどありませんでした。   どれだけ軽視されているのか?自分は誰からも驚くほど軽視されている)  認知力、把握能力、知識…  何を言おうと↑違いない。  自分の見えているもの、聞こえていることが確かな限り。  もし知人の方が上だとすると、知人は自分の前で常に力を隠し、能力の低い人を演じている…  または自分の見えている知人の姿や声、知人の残す形跡などは幻想ということになる。  そんなことがありますか?ありえないでしょう。  ネット上の人なら絶対知人の方が能力が上だと言うでしょうが、残念ながらそれは違う。  残念ながらどう足掻いても知人を持ち上げることはできません。  だから自信があるわけで、自信がある素振りなどしていません。断じてしていません。  ネット上の人は「自信があるはずない」と思うようですが、これ↑が事実です。  だから嘘ではありません。  知人には1年かかっても分からない機械やゲームの仕組みを自分は1分足らずで把握できたり、  知人には一生かかってもできないパズルや何か組み立てるものなどを自分は3分で完成させられたり、  知人が把握できない地図を自分は瞬時に把握できたり、  知人がどうあがいても描くことができない細かい絵や立体感のある絵を自分は意図も簡単に描けたり、  (↑自分の絵は糞。そんなのおかしい嘘ではありません。   知人は現に普通書けないような凄い絵だと散々言っていました。幻ではありません)  知人にはできない(目視することすらできないような)細かい作業が自分にはできたり、  知人が忘れていることを自分は正確に覚えていたり、  (「これまでの全てを覚えている」とは言っておりません。全てを覚えている人間など人間ではありません)  知人がまず直せない壊れたものや不具合を自分は直せたり、  知人が一言二言でしか書き表せないことを自分はその100倍のスケールで書き表せたり、知人が忘れていることを覚えていたり、  知人には到底思いつかないようなことが自分には思い付き、良い様にできたり、  知人がちゃんとできないことを自分はちゃんと(100%まで)できたり、  知人の気づかないことに自分は気づいたり、知人の分からない原因が自分には即分かったり、  知人は数字の意味が分からなかったり突発的に単純な計算ができなかったりするが自分はそんなことはなかったり、  知人が20年見続けていても覚えていないことを、自分は20年前から覚えていたり、  (↑そんなことはおかしい嘘ではありません。   生き物の行動パターンや町の風景など毎日見ていてもいつまでも覚えていなかったりします)  知人には原因や要因が分からず良し悪しの判断がつかないようなことを、自分は容易に判断できたり、  知人はある類のことを覚えよう把握しようとして奮闘してもいつまでもそれができなかったりするが  自分は覚えようとすらしなくても短期間でそのことを覚えて把握できていたり、  知人は1つのことを覚えるのに1週間かかったりしますが自分は1日で10個以上のことを覚えられたり、  知人が勉強したり研究したりしないとわからないことを自分はそんなことをするまでもなく即座にわかったり、  知人は家具や物などをきっちり整えることができないが自分にはできたり、  知人が絶対できないと思っていることの数々を自分は絶対できたり、  知人が人の助けを借りないと無理なことを自分は誰の手も必要とせずにできたり、  知人は1つ1つの動作が苦だったりするが自分は全くそんなことがなかったり、  知人は完璧にできないのに自分は色々完璧にできたり、知人には到底作れないようなものを作れたり、  知人が「知らない、分からない、できない」と言っていることを自分は恐ろしく詳しく知っていたり、分かったり、できたり、  知人は記憶と記憶が結び付かなかったり記憶が出てこなかったりで  真実とはかけ離れたことを思っていたりするが自分はそういうことがなかったり、  知人は明らかでないことを明らかと思ったりするが自分はそういうことがなっかたり、  知人と違って色々幅広く、色々楽しめたり、自分は学習できたり、覚えられたり、  何が良いか?何がだめか?判断がついて最善の形がとれたり、  知人は嘘を言ったり各発言が結び付いていなかったり決めつけたり受け入れようとしなかったり  知ったかぶったりまやかしたりするが自分はそういうことはしなかったり、  知人は都合よく色々忘れて自分という自分を美化したりするが自分はそんなことはなかったり、  知人は色々おかしなことになっていても、自分はそうでもなかったりetc.  挙げていったら切りがありません。根本的に違う。身体的なことに関しても色々ある。  1度そう思ったことがある←ではなくて、「知人といると四六時中そういうことを思う」。  だのに知人は皆自身の方が上だと思い、上から目線の先生気取りでいるという…  自分の方が劣っていると 感じる ことは、もうほぼない。  とはいっても自分は超人とも思わない。  何というか知人とは考え方や力の注ぎ方が違うだけ。  超越した能力や特殊能力のようなものは何もない。  各分野ごとにおいて自分よりできる人がこの世には大勢いるということは分かっています。  「あらゆること」ではなくても、できる人は自分と同じような感覚で何かできたりする。  ただできない人はできない。感覚の違い?  自分の身近な場所にはできる類の人、自分のような把握力のある人がいない。  言ってること、分かりませんか?  分からない人は他人のことを良く見ていないか、同類の仲間としか関わらない人ではないですか?  できる人はできる、できない人はできない。  同じ人間でも信じられないほど差があるケースは良くあります。  世代や性別によっても大きく違います。分かりませんか?  良くあるのでおかしいことではありません。知的障害者とはなりません。  おかしいと言うことの方がおかしいです。  理解していないといけない。  自分の知人の中には自分とは世代や性別の違う人が大勢います。  もし身の回りに自分以上の(自分には敵わないと思えるような)人が現れたら、心境がかなり変わる。  自分は馬鹿にされているので、「適当に根拠もなく何となく想像で自分は有能だと思っているのだろう」  はたまた「何か1つの馬鹿げたことを根に持って自分は有能だと思っているのだろう」なんて思われますが、大間違いです。  なぜか訳もなく自分は有能だと思うはずありません。そんなはずありません。  繰り返し言います。そんなはずありません。  自分は自分という人間を誰とも照らし合わせていないからそう思っているでもありません。  「比較対象になる人間」がいるからそう思うようになったわけです。(当然)  自分と比較できる自分以外の人間の存在なくして有能と思うはずない。  本当に、人に思われることは訳がわからない。  知人と話したら、知人に様々なこと教え、知人を成長させることができるでしょう。  「超」がつくほど優良なサポーターにもなれる。(本気で言っています)  知人を見ていれば見ているほど、自分が非常に有○だということを実感する。  もう次元が違う。  何も教えられず、力を抑えていないといけないのが本当に惜しい。  生きる世界が違うレベルの差があり、付き添われていないといけない、共に生活していかないといけないことが苦。  それなのにその知人らに自分は低いレベルの人間だ弱者だヘマしまくるやられまくる無能だと信じられ続ける。  何も知らず、かってにそう思われ続け、それ相応の扱いをされる。  本当にそう思っていると、その人はそれが失礼なことだとも思わない。  理解して配慮してあげている(良いように考え良いことをしてあげている)ように思ってしまう。  それがまた嫌らしい。  「何も言わない=何も思っていない=何も考えていない=無能」一般的にそう認識される。  猿が人を犬だと思って馬鹿にしているようなもの。本当に。  人が猿による犬に対する扱いを受け、それがためになること意味があることだと思う?  思わないでしょう。酷すぎる。  そんなでどうこうさせようとしてくる側までも酷すぎるわけ。  どれだけ細かく説明しないといけないのか?  (↑誰にも理解してもらえないので、   何とかして理解させようとしてヒートアップしてまた若干危険なことを書くまでしてしまいました。   人を貶す心のない糞人間確定?もはや人間ですらない?   ↑とある個人に対して言っているわけではないので容赦範囲内だと思いますが。   そんなことを言う人の方が心がないように思えます。   他人を思いきり貶しているのは誰ですか?   知人を擁護する正義にも見えません。   もしそんな心が無の人間なら人のことなんて気にせず、人に見られていても動じず、こうなっていなかったでしょう。   ネット上の人によく思われるような心のない人間なら、ある意味楽。   密かに深刻な気持ちになってしまうようなこともないだろう。   真実の自分は、誰しもが想い描く想像上の自分とは違う)  こう言っても何を言ってもネット上の人は全部嘘だとし、知人の方が上ということにするのだろう。(ですね)  自分が悪くなるようなことは一言で認められるのに、自分が優位になることはどうしたって認められない世界。  それがネット。  (おかしい嘘などと言う人、本当のことですから、自分だけでなく予期せず自ら知人に失礼なことを言ってしまっています。   ネット上の人には「自分はおかしい、嘘を言う、自分の言ったことならかってな解釈をして思いきり貶していい」   という固定概念があるように思いますが、そんな自分ではなく知人に言ってしまっている。   そういうケースはわりと良くある)  嘘を言う意味がない。  嘘を言ったら意味がない。  自分はこの事情によって色々なことを阻害されています。  現状打破したらその阻害されるものがなくなり、今のように「変に」力を抑えたり行動を制限したりする必要がなくなって  常に全力を出していられるようになり、素晴らしい世界が広がるでしょう。  だからこそそうしたいと思うわけです。  知人よりも上の境地に移行できる。  能力が低い人は能力が低いことが分からず、自信満々でいるもの?  本当に能力が低いがために自信なしの人(実際に能力の低いのに自信がない人)なども  明らかに大勢いますが、ならそういう人との違いは何か?  自信があることは即ちできないことになりますか?  自分がそれなら、知人らは何なのか?  色々疑問です。  何かが「できなくて」叱られ、嫌になる…そういうことは普通必ずある、ありきたりなこと。  ごく普通の、つまらないこと。  だが自分の場合それはなく、その逆のような感じ。  こんな人はいない…。  知人を擁護する必要はない。  何がどうあろうと、悪いことにされるのは「自分」。  貴方もそうしているでしょう。  自分は悪を寄せ付ける磁石で、悪の塊。  「自分は能力が高いと思いたい」とかそういうことはない。  能力が家族の思っている通りなら演技をして能力を隠すようなことをしなくても良かったわけです。  むしろそうは思いたくなかった。  けど実際、事実として、それが高くて、驚かれるから、そうせざるを得なかった。  そういう話。  誰も見ていなくても全力を出すのは怖かった。  能力の高さを隠すためにできないわからないふりをするようになったわけです。  能力が低いはずない。  長いことそうしすぎて暴いても誰も信じない状況になってしまった。  そのようなことは誰もわかっていなかったし。  ともかくいろいろ「できない」とかってに思われるが、  実際、自分はできないことがなさすぎて何というか「できない」の意味がわからない。  「できるようにやればいい」←だけの話。  本当に簡単なこと。なのにかってに重く見られてしまう。  できない人のできない感じはよくわからない。  できない障害者の感覚などもわからない。  そんななのにできない、障害者だとか思われていて空しい。  自分は「自信がない気弱貧弱…」ではない。  全くそんなではない。  「できることはできるとわかっている」から、あらゆることを認識していて想定積みだから、「不安」とかも皆無。  いい加減受け入れてください。  できない証拠もないのに、自分は現状とにかくできないわからない糞だと思い込み、そう言い続けているなら、  そうだと自覚させさる(明白にする)ことをしてみればいい。  そうしたらこちらではなくて、そちらの方が誤解を自覚することになります。  「人からできないと思われている」のに実際はできるから、  あえてできないと思われるようにし、いつまでも本当にできないと思われて止まない。  家族も皆、自分より上の立場だという意識が強いから、見下してきたがる。  単純に知的水準が低く、「知的障害者に近い存在」なのは知人らの方。  こちらからしてみると信じられないような低水準な思考回路。  少し頭を使うことをすると、すぐに自分との知的水準の大きな違いがわかってしまう。切ない。  自分は知人にそんな知人自身より遥かに低水準なものだと信じられているから泣ける。  皆自分は並外れた低水準、即ち価値のない人材だと思っており、時間などを奪っても、惜しいとも何とも思わない。  単に「できる」ではなくできるすぎる。  あと「できる」だけでなく、わかる。知りすぎる。  それがどうしても受け入れられなくて悲惨。  知人らは自分が人並み劣る無能だと信じているため、自分は自分でも生きる価値がないと思うものだと思っていたりする。  自分は人を犠牲にしてでも生き残るべき人材。いらない存在は自分ではなく…  本当に、知的障害者でない限りありえないほど無知だと思われている。 ・中学校以前の知人に説教される △  最も感情を揺さぶられる存在なのは中学校以前の知人。  家でも話さなくなり(普通ではなくなり)、逆におかしくなっているということを知られたら一溜まりもない。  もし知られて何か言われたりでもしたら、正気でいられなくなって何か変わるかもしれない。  親はそれ以前をかってに黒歴史のように見ている。中学校が終わったその時点からすでにそう。  それ以降の方が黒歴史だと思うが。抹消したいのはそれ以降の方。  心の問題なので、こういう形ではなくともともかく心を動かすようなことをされると、効果がありそう。  有効なのは何というか動的な訓練ではありません。  言葉などによって「心を動かすことをする」ことの方がまだ意味がある。  改めて言いますが、現状を知られることはとんでもないこと。  そのことは理解してほしい。  まだ常時本来ではないどころか、逆に恐ろしく悲惨な有り様になっているわけです。  これを実行するということは、即ちとんでもないことをやらかすこと。 ・催眠術により催眠状態にする ○?  うまく意識を変えられたら、その間話したりすることができるかもしれない。  寝言なら言える(自分で自分が喋ったことに気づかないので)のと同じ。  程よい昏睡状態ならいいわけです。  昏睡状態になる方法はほかにもありますが、そのほかは良くなさすぎる。  今やより知恵もつき根深くなってしまったので、  知人の前で本来の姿を見せるということははっきり「意識」がある限り、無理に近いほど難しい。  催眠が溶けても、スムーズに溶ければ平気だという感覚が得られて  (もしくはまだ催眠状態であるフリをして)しばらく本来のままでいれる可能性もある。  (これは自分で思いついたことではない)  (動画←で)体験してみましたが、結果:全く催眠術にかからない  潜在意識を書き換えることもできそうにない。 ・酔っぱらう ×  経験がないのでよく知らないが正気を失い意識がなくなるなら、いける。  話してしまえればその後も平気になる可能性が。  これは催眠に近い。  酔いが覚めれば元通りになるという常識があることが少し問題。  でも現実的な厳しさは緩い。  酔ったらおそらくかなりの高確率で自分は知人の前でしゃべるだろう。 ・寝言を言う  聞いた人に声に慣れてもらえるので多少良いかもしれないが、  それ言う体質ではないし、聞かれたいとは思わないもの。  無意識を装って何か言い、覚えていないことにすれば問題ないわけだが、  一時的にではさほど意味がないし、問題ないとはいえ、なかなかできなることでない。 ・テレパシーを通して会話する △  心を読むことができる超能力を持つ人となら話すことができそう。(前々から思っていたこと)  身近なところにそういう人がいたので(会ったことはないのでどの程度読めるのかわからなし、信じがたいが)、  超能力は存在すると思っていた“ことが”あった。  もし読めるなら通訳としても使える。  話すことに慣れるために有効。 ・本来の時の自分の姿を映した映像を知人に見せる ?  このページの1番上のリンクの話にもあったが、それなら無理はないし、有効かもしれない。  否定的な人が多いですが、自分はむしろやってもらいたかった。  怖いがいいかもしれないと前々から思っていたこと。  ちなみに、家にいる時の様子(自分の本来の姿)を盗撮して、  それを密かにほかの人に見せているクラスメイトはいた。(小5の時のこと)  当時はあるきっかけにより家でも一部の家族と話しにくい感じになりかけてきているころだったが、  話しているところが写っていたようで、むしろ良かったと思った。  話せない人とは思われたくなかった。  もっと見せびらかしてくれても良かったの「かも」しれない。 ・ネットで知り合った人に自分のリアル知人と交流してもらう △  代行して何か言ってもらうようなことができたり…  これは少々危険。 ・学校で食べ物を食べる △  もともと、現状打破を果たすためのキーはこれだった。  「微々たる量」ではあるが食べてしまったことがあったが、その時は「普通になれるその時来た?」的な感覚になった。  元の自分に戻れたような気がした。  でも根深くなってしまったからか、話せるようにならなかった。  そんな気がしただけであった。  その時、もうこれではだめなんだと思ったが…  “自ら”食べたとしたら、どうだったかはわからない。  まだ症状の根の浅いころ、自らこれをやり、(現在まで続く今回のこの状態を)一瞬また克服しかけたことがありましたが  その時!前にいた某クラスメイトが驚きの声をあげた。  それで恥ずかしくなってだめになってしまった。。  そういうのをやめてくれるよう伝えてくれていたら…今頃どうなっていたことか??  その時はぎりぎりで口に入るところまでは至らず、誤魔化すことができてしまったので「食べた」とは言えない。 ・1度喋る ○  1度声を出してしまえば、1度自ら動いてしまえば、それ以降普通にやれる のではないかと思っていた。  だが食べる件と同じ。  そういうことが学校であったが、その時、元に戻れたような気がしただけ。  根深くなってしまったからか、だめ。  1度きり。  しかも今となってはそうしたとすると、その後翌日になったら前日のことが恥ずかしくてたまらなくなることでしょう。  少し時間が経ってから改めて思ってみた時のことを考えてみるとできない。 ・厳しくされる ×  そもそも厳しくされていたらこうはならなかったかもしれないわけです。  家から追い出すくらいの感じになってくれたら変われるかもしれない。  大人になってもそのままならそうなって変われるかと思っていたが、、いつまでもそうはならない。  だがいずれさすがにそうなる時が来るかもしれない。(いや残念ながら来ないだろう)  お前は重度障害者だ。何もできない(できるようになる余地ない)から何もしなくていい←で片づけられてKO。。  現代が何もできないフリをして何もせずに生きていられるような、甘い世の中であったことも裏目に出てこうなってしまった。  「もともとの本質的な障害だから環境がどうだろうと関係なく必ずこうなっていただろう?」←それは酷い間違い。  自分を取り巻く環境を作った人は自身を正当化できるので、そう解釈したがる。  自分が自分の保護者なら絶対にこうならないようにできたと思う。  後者の自分を理解していますから。  どうしたらいいか、どうするのが有効かわかる。 ・障害者に話しかける ○  理解力がなく、言葉を発することができないような人(赤子・動物も該当する)にならなんとか話しかけることができる。  こういうことをしていれば話せるようになるか?的なことを思っていたが、  いざやろうとしてみると「だから何?」と思うだけであった。 ・激しいメール友達を作る △  日に何回も何十回も一方的にコンタクトを取ろうとしてくる人を知っていますが、  何か行動を起こす上でそういう人がいると良いと思う。  「自らの意思で行動している感覚」をなくせると行動しやすい。  (そうは見えないかもしれませんが)↑通話をしたことなどに関して書いた内容の中で言った通り、  実は話すことが凄く怖いので、相手側から常に攻めてきてくれないと会話もできない。  色々すれ違って誤解されて食い違って面倒なことにもなるだろうが、それでも話せる相手がいると違う。  その存在は大きい。  普通に仕事で稼いで生活するくらいになるためには、(激しくなくても良いのでともかく)話せる相手を作ることが必須。 ・1人で独り言を言う ○  誰もいない時に、あえて多めに言ったりしていると、人前でもうっかり何か言ってしまいそうになってまずい。  それだけでした。 ・1人の時、堂々とする ○  誰も見ていなくとも、狭い場所などにいないと何か恥じらわしい感じがしてしまうのだが、  そこで恥ずかしさを感じずにいれるようになれれば何か変わるか?とも思ったり。 ・少し声を出す ○  小5の時、道端で遭遇しただけの人や、話さなくなったことをあまり知らない人の前で  何気なく声を出したりしてみたことがあったが、だから何という感じ。  現実的に考えてみるとそうなって当然。  もうできない。 ・何もしないようにしてもらう ×  知人に見られていなけば本来の状態なわけですから、  知人に構われず見られていない時をほとんどにすれば、ほとんどの時間本来の状態でいれる。  現状打破に近い。(常に構われなければ完全に現状打破)  序々に手を出さない(自分に何もしない)ようにしていく形で  欠かせないことにも手を出さないようにしていけば多少知人が不安になりにくいかもしれない。  欠かせないことを本人に任せるというのは知人的にNGに近いか。  いないものとみて、何もしないなら別の家にいることとある意味同じです。  固定された長い本来の状態の間にするべきことをする…という案もある。  世話をされることは迷惑です。  相手(知人)にとってもそうでしょう。  つまり互いに迷惑。いいことなし。  でも世話をしないと犯罪で(そう見ている)、何もしないようにしてもらうということはできない模様。  迷惑なら何もしない(構わない)でいてくれればいい。  だがそうしてこないのが現実。  自分は何もしていないし、何も要求していません。  (家族を始めとした)知人は自ら迷惑することを作っている?だけです。自業自得。  「少しくらいなら世話をしなくても問題ない。   世話がままならなくて放置されたりおそろかな扱いをされたりするだろう」←凡人は皆そう思う。  そんなことはない。  しっかり保護されて世話され続ける。  このままなら一生涯そうだろう。  自分にとってはそれが全く良くない。  「おろそかにされた方が圧倒的に幸福」なわけ。価値的なわけ。  …誰もそうは思わない。  こう言っても「そんなわけない」という感じで誰にもそうは思ってもらえないだろう。  不幸。  知人に何かやらせているつもりは全くない。  かってに自分にあれこれしてくるだけ。  なのに「自分にやらされている」だと思って悪く言われるから、たまらない。  金を稼いでいないのだから、食べる資格も電気を使う資格も何もない。  人間なら普通そう。不平等。  だから(そういう意味でも)極力食べたくも使いたくもない。なのにそうはさせてもらえないという。  こんなやつは早く縁を切って追い出せばいい。  自分は反則的な人間。  こんな風に生きていたら、普通に働いて生きている普通の人に悪い。  手間も食費もエネルギーも自分に注ぎ込んで(費やして)くるなと言いたい。  なのにガッポリ金を注ぎ込まれ、ガッツリ食わせられてしまい阻止することはできない許されないという。  「費やさないよりは費やす方が良いんだ」と皆思い、逆に普通以上に費やされたりする。  遠慮は利かない。  嫌だし、食に関しては無駄に多く費やされると単純な意味でまでもそちらの方が大変だし良くない。  メリットがない。デメリットだけ。  「費やさない方が良い」というそちらの発想は誰も持たない。  良いことをしたい一心で費やす。  そういう心があると逆に良くないことをされる。皮肉。  自分のために金を使われることは嫌なこと。  だが誰もそうだとは思わない。  金投資され放題、食い地獄の苦しみ哀れみがわかる人は“いない”。  誰しもが苦しく哀れなのはその逆だとしか思わないから。  人は逆のことなど考えもしない。  人に何も望まず、関わってこないでほしいと思っている人はその対象の人に関わられる。  人に何かを望んでいる人はその対象の人から嫌がられ、関われるのを避けられる。  そういうものなのか?  誰にも利点がない。色々なことが台無しになる。  「家族は自分が家族であること(親は自分を産んでしまったこと)を屈辱的なことだと思っている?家族は自分のためではなく、   家族自身の身のために自分を世話し続けている?本当はこんなやつ見捨てたい?」  家族自身の身のために自分を世話し続けている←これはあるだろう。  それが自分を見捨てることができない大きな要因かと思う。  それは自分が障害者にされたから。  (障害者を見捨てたら逮捕。障害者は自らの意思で家を出ても形式上そうはならず保護者が出したということになる)  家族は自ら自分を障害者にしておきながら、それによって自身も危険に晒され、世話をし続けないといけないハメになっている。  障害者を支援する人達との関わりをなくした上で障害者の肩書きをなくせば見捨てても家族は捕まらない…  なら、そうすればいいことだと思う。(見放すことは絶対無理とは言えない)  本当の重度障害者やその保護者は、いつか見放され放棄されてしまわないかと  将来のことを心配したりすることがあるようだが、全くそんな必要はない。  自分はいつまでも見放してもらえないことに不満を持っている。  見放されること、呆れられること、嫌われることなどは全く怖くない。  何せ見放されること、呆れられること、嫌われることなどを逆に望んでいますから。  (本気で嫌われ嫌がられれば「こんなやつ消えていい」と思われ   〈↑「最初からそう思われているだろう」とそうネット上の人なら思うことだろうがそれは違う〉追い出してもらえるかもしれない)  保護者が逝くことも同様に怖くない。  逝ったら現状打破して輝く世界が開けますから。(開けなくなくありません。しっかり考えた上でそう言っています)  人を頼らないと言うと頼れと言われる。頼ろうとすると頼るなと言われる。  人には「絶対そうするべきではない、そうは思わない、お前にそんなことはできない(かってな解釈)」などと言われ、  根本的に全否定されて誰も乗ってくれたりはしないのでどうにもならない。  どうせそういうもの。  人に何も求めない。誰にも期待しない。1人で何とかする。  そう考える。  理解者は0。  人がどうしてくれること、どうなってくれることを強く願い、  その願い通りになってくれることが自身の幸せだというような人がいますが、それでは厳しい人生になるだろう。  夢も能力も考え方も重要視していることも人それぞれ違うのだから、人は人、自分は自分として生きるのが良いと個人的には思う。  ネット上の人には理解しがたいかもしれないが、自分が家族に見放してもらえない理由のうちの1つとしてこれがある。  「人間は一人では生きれないもの?」  ↑ほかの生き物(動物)は皆一人で生きているのに、最も優れているとされる人間が一人で生きれないというのはおかしいです。  そう思いませんか?  1日知人(家族)といたら1日何もできずに終わってしまう。  迷惑者になってしまうし、自分の力を全く活かせない。  力を99%隠し続け99%持て余している。  知人は皆自分より知識や能力が低…高くないので、自分は知人に対して  「なぜ分からない?なぜできない?なぜそれを間違う?なぜ忘れてる?」みたいに思うことばかりでムシャクシャする。  そうとも知らず、知人は自分を知的障害者と同類と思っていますからある意味自分を軽視し馬鹿にし不愉快。  わかりますか?そんなで知人といたいと思うはずない。  障害者と同類だったらこうなっていない。(←この意味は知人には全くわからないでしょう)  しかし家族に気にされない人、家族から嫌われている人、家族から見放されている人、本当に羨ましい。  そういう人はその逆の人を羨ましく思っていたりする。  …うまく噛み合わないもの。  こっちは何もしていないのだから、気にしなければ何もない。  かってに人に対してどうこうしてきてその人に苦しめられてるみたく思うのは、その人に失礼。  その人が派手に巻き沿い食らうし。  自身の考えしだいで苦しめられないようにできる。  気にしてくるのを本当馬鹿らしく思う。  熱心に構われるほど、派手に演技し続けることになる。  健常者に見えないようにどれだけ気をつけないといけないか、どれだけ心苦しいか、どれだけ恥か。  そのことがわかる人も世界に「誰1人」おらず、皆、派手に演技させるようにしてくるから地獄。  皆構ってあげていることが良いことだと思っている。  構われていればいるほど残念だというのに。  構われがちな日は、残念な日、苦しみの日でしかない。  全くもって、体(身体・脳)にできる機能が備わっていないわけではないというのに、できないと見なしてくるわけ。  信じられない。  そう見なさない方が普通な気がする。  本当、世話してくる行為、やめてほしい。(世話してくるのは、できないと見なしそう思い込んでいるから) ・嘘を言う ○×  気付いていない人も多いが、嘘でどうにでもできる。  嘘で家族らをコントロールすればどうにかなる。  がしかし、気が引け、あえて、それはしていない。。  知人らの側もまた、嘘で自分をどうにでもできる。  死んだことにでもできてしまえる。そんなたいそれた嘘ではなく、ちょっとした嘘でもどうにでもできる。  平気で嘘が言える特権を活かし、どうにかすればいい。 ・○○ ○  成人した時から本格的にやり出して150時間を越しているがどうもなっていないのが現状。  逆効果だと思えるようなことがほとんどだがそうでもないと思えるようなことも。  本当に逆効果ならその逆もありえるということなのでむしろ希望が芽生える。  心は理論で成り立っている。そういう人の場合、どうなのか?  「何かに対する想い」というのは、最初からずっと同じ(不変)ではなく、そのものと関わっていく上で変化します。  色々な行いや結果などによって色々と感情を揺さぶられますから、それによって変化する。  言っておきますが、普通にしています。  普通の人のように普通にやらなければしたことにはしません。  そうでないと自分を許せません。  かってに変なふうに思わないでください。普通の人と思ってください。  良いことだと信じて精一杯善意を持って行ってきたことが誤解で、別の人は精一杯善意を持って逆のことを望んでいたり、  ある人にとっては良いことでもある人にとっては悪いことだったり、信じて望み続けていることが間違いで無意味なことだったり…  善悪の基準はよく分からなかったりするもの。  神も悩むだろう。  迷信を信じ続ける人がいるように人は根拠がなく何もないことを信じ続けられる。  その通りにならなくても、何かが足りなかった、その程度で済んだ、良いことへと通じる何かだなどとし、  どうにでも肯定的にポジティブに解釈できるからだ。 ・ネットの掲示板で会話する ○  電話とゲーム機を繋いで見知らぬ人と会話できると聞いたのは98年頃のこと。  それならできそう。本当ならやってみたいと思った。  違う形ではあるが、その見知らぬ人との会話は2004年の時点できた。  これができていなかったらどうなっていたことか?(できない方が良かった?それはないです)  ネットがあるから現実で会話をしないわけではありません。  ネットをなくしたからといって現実で会話はできません。  自分はずっとネットのない世界で生きていました。  あと言っておきますが「掲示板でネットで世の中を変えられるから現状打破しない」なんて馬鹿げたことは考えておりません。  自分のためだけの人生では生きた意味がない。  ただ生きるだけなら生きなくていい。 ・特に考えず、いきなり現状打破する ○  それができないから色々な案を出したわけだ。  これは原点回帰案。  いきなり戻った上で、今日からどうするか話し合う。  各場面に応じて、各知人に対してどうするか?どう説明しどう過ごすか?今や考えれば考えるほどもうマズイことだらけ。  困惑が絶えないだろうが、成り行きに任せる。  今やあまりにも恐ろしい現状打破方。  だが頼みの綱である○○○○はこうすることを推し進めているとしか思えない。  どう意気込んでもこれは厳しい。ボケない限り。  それでもこれで行くとしたら、↑↓の現状打破方を熱心にやる形になる。  これは、これまでずっと望まれてきたことでもある。  どういうわけで自分がこういう状態でいるのか?相手は何も分からない。  そうなるとやはり「今いきなり話せ」と言われます。それを望まれます。自然なこと。  これで通すなら結局はその形を何も変えないということに。  それでは何も変わらず終い。  このページを作った意味もあまりなかったということに。 ・その他  このほかに良いと思う方法はありません。  良いと思ったらここに入れているので当然です。  理論を無視して何かするのは理論上、無意味路線へ走るとしか考えられない。  だが知人がしたがることはその「その他」。  厳しい。  これら以外のことは全て理論上意味がない。  自分を理解していない家族等があれこれ考えても、根本的なことがそもそも色々間違っていたりで話にならない。  誰も理解していないので、誰かから薦められることも全部的外れ。  というか何というか、間違えていてハズレ。  何も理解していない人が何か言っても基本、的はずれでしかない。  理解しないとその人の助言は助言にならない。  そんなで知人の考えることは何のメリットももたらさない。  何も知らない初対面の人のことを超能力で知ってるつもりになってどうこう言ってるのと同じ。  毎日見てるから、家族だからなんかわかる伝わるとかない。(色々わかっていなかったことを自分は確かにわかっている)  これほど理解していないのに、どうこう思ってどうこうしようとしたりするとかない。  そのこと自体間違い。  どうこうするなら理解するのが先だし、理解がないなら手を出すべきではない。  家族らはまず「理解」しないとどうもならないのに、その過程を飛ばして自分に対してどうこう思い派手にどうこうしてくるから悲惨。  家族で日々見ている構っているのに、こうも理解していないというのは一般常識に当てはめると「酷い」こと。  何も知らないのに、お前はできない知らないわからない無理に決まってるとか失礼極まりない。  これだから何もできない感じなのに、それがどうしてもわからない。  「~だと思う」だからだめなどと言い張り、他人の意思を無視して行動し続けたりする…それも良くない。  実際にやってみたり、やめてみたりして結果を出してみないと、別の考えを持っている人達から永遠と不満を持たれたまま。  自らもその人達に対して不満を持っているまま。  家族は自分にやらせたいことがあると自分はやりたくなくても押し通してやらされる。  実際プラスにならないことだからやりたくないわけでそうされても何にもならない。  自分のやりたい(プラスになる)ことは家族がやりたくなく、流される。  何でもほとんど相違してどうしようもない。  自分に有効なことは↑これだけある。  “「どこか遠くで1人で暮らす」がだめな場合、どうしたらいいのかわからない”ではありません。  間違えないでください。  ただそれ以外の場合、改善できる保証はない。  「できない障害者だということを周りに理解してもらわないと1人で動けないだろう?」←これはあまりに酷い誤認。  「できない障害者だと思われているから」、できない。  思われていなければ何も問題なくできる。  できない環境をあえて作ってどうする?  周りの人から「障害者です、できません」などと思ってもらえるように仕込むとか、ただのとんでもない罰ゲーム。  いろいろ真逆なことを思われて、真逆のことをされ続けるから一溜まりもない。  自分を知らない人が敵ではなくて、知っている人が敵。  見知らぬ人の方が自分を理解している。  こう言ってもどう言ってもこういったことは信用されず、受け入れてもらえないから、どうしようもない。  (いくらなんでも)この言葉の意味がわからないということはないでしょう。  受け入れてもらえないからだめ。  自分の言葉が言葉になっていなくて伝えることができていない=無能、知的障害者とか認識する人がいますが、酷いこじつけ。  しかし毎日見ている人よりも、会ったこともない見知らぬ人の方が自分を理解しているというのは本当、  何というか自分でも信じられないような有り様。  家族にこのことに向き合われると、今や「本気で」低レベルに見られていること、  「本気で」何も知らないできない知的障害者のように思われていることが目に見えてわかってしまい、何というかあまりに悲しい。  そんなでもう近寄りたくもない。  本気で本当に無能で障害者だと思われているわけ。  これでは本来は見せられない。  本当にできない変なやつではなくて、そう思われているから、そういうふりをせざるを得ないと言っている。  自分のことをそういうふうに思っている人の問題「でも」ある。  悪く思われたらその通りの人のふりをせざるを得ない。  その意味で悪く言うことに利点ない。  「できるようになりたい」というより、「できる環境(即ち家族のいない環境)で生きたい」。  こういうことを言っていても、「できるようになりたい」としか目に映らず、  いままで通り無意味の定番「訓練」になってしまったら何にもならない。  「知人がいなくてもできるように、知人がいる時に訓練させる」「家族がいなくなった時に備えて1人でもできるようにさせる」  「人前でできるようにするためにまず知人の前でできるようにさせる」  ↑これ、もう言葉には言い表せないほどに馬鹿らしい。あまりにも酷い考え。酷い間違い。  「いるからできない」とどれだけ言ってる?  できるようにさせるとしたら、それはいる時。  「知人」と「その他の人」はもはや全く別。  毎日見ている人がそれだから、あまりに理解がないから、泣ける。  知人が「できるようにするための訓練」だと思ってさせてくる訓練は、全くそんなではなく、  「できないふりをする、演技の訓練」になっている。それだけ。  そうとも知らず、相手してくる知人も哀れ。  「知人の前でどれだけできるか?」は、即ち「どれだけ演技を控えめにするか?どれだけ力の抑制を緩和するか?」。  なのに知人は皆、どれだけ覚えられるか、把握できるか、  スキル(幼児レベルの)を身に付けられるか、体を動かせるかだと思っている。  でそれ相応のことをされ、時間を潰される。  …もう、言葉で表現しきれないほどの馬鹿らしさ、空しさ。  「できるように頑張れ」だとかも酷すぎる。  こちらからしたら的外れで意味がわからない。  何せ頑張ってできないように見せているわけ。  できないようにすることを頑張っている。  …全くわかっていない人に操られる悲惨さ空しさ苦しさ恐ろしさは凄まじいもの。  頑張らなければできる。頑張っているから、知人らはできないと思い込んでいる。  知人らの理解度は本当、信じられないような次元。  知人の言う「できる」をしてしまったらそれはミス。  できたら馬鹿。できないでいれたら有能。  誰もそうだとは思わない。受け入れない。わからない。でどうこうしてきて悲惨。  自身の思っている自分の形を一旦全部崩して構築し直していい。  常識外れなことは受け入れられず、常識の中の何かに当てはめてどうこうされてこの様。  常識外の人間はいろいろ悲惨。  知人が自分にしてきたこと全て無価値ですからこちらからすると、自分に何をしている?頑張って何をしている?  知人は自分の何に苦しめられているんだ?という感じ。  知人がやらせてくることに自分は乗っていないし(無価値ですから当然、乗るはずもない)、自分は何もしてるつもりはない。  かってにどうこう思ってどうこうさせてどうこうして…  こちらから見ると知人は自分自身で自分自身を苦しめているだけ。  …それだけならまだいいが、派手に自分を巻き込むから嫌らしい。  何もしてこなければ自分でするのに、、本当馬鹿らしい。  「話してもいない見てもいない」のに、かってにどうこう思ってどうこうさせてくる。  ありえない。  で全部間違っている。で酷さに気づかない。  自分でしていることは現状打破に近づく要素があるので、そういった意味でまだ価値がある。  知人とどうこうさせられるのは、ただただ時間を失うだけ。  何の価値もない。  知人らは「話す」ことは無理だが、「動く」ことはできるかもしれないみたく思っている。  (で話すのは無理だから話すな的な感じだったり、話させることは眼中にすらなかったり)  皆そう思い、その上でどうこうしてこられる。  そのような中途半端なことはない。  普通のできないとは違うから、そういうものではない。  基本情報に書いた通り、話さない時は即ち…以下省略なわけ。  演技なのだから、どちらか一方となると、それは「中途半端に演技」という形になる。  動くのは話してもいい場合。話さないなら動くつもりはない。  やって良いのか、良くないのか。  どちらかによってきっぱり分かれるもの。  動いてもいい時は、話してもいい時。  長年見ていても、そのこともどのことも誰も何もわからない。  …呆れるほど厄介、人にどうこうされる身なのは。人に他人のことはわからないのに。  知人は自分を気にせず忘れて、いなくなったもの見えないものと思うようにすればいい、簡単に言うと何もしてこなければいいそれだけ。  それが知人が自分にするべき(的確な)こと。  するというか、するをやめることをすること。しないことにすること。  他人にはわからないことがある。  持っている知識とそれに基づいた考えはそれぞれ違うわけ。  相手のことを知るのは相手自身。  わかったつもりでどうこうしてくる行為は恐ろしい。  よくもそんな人を苦しめ兼ねない行為を気兼ねなくできるもの。  こういうことを受け入れず無視で、誤解しているまま無意味なことをしても、思い通りの結果が得られるはずない。  無意味(的外れ)なのだから。  全て理由、理屈に左右されている。  することは、だめな理由、理屈を取り除くこと。  理由理屈を無視してどうこうしても何もない。的外れでしかない。  無視せずにそれを取り除けば「必ず」現状打破。  そもそも「人がどうこう」しても何もわかららないのだからデメリットしかない。  単に頭がおかしい病気障害だとか思われているから、馬鹿にしていてこの様。  本当、どうしても「何かしら異常に人並み劣ることがあるおかしいやつ」と思おうとされる。  それが正しくないから問題。 - 現状打破できるかもしれないシチュエーション - ・自分が大病を患う  上記の通り()、話さないままでは人生を終えられません。  死の寸前くらいになればいくらなんでも話してしまえる。  前々から思っていたこと。  何かきっかけが必要なわけです。  そういうことでもあればイケるので、  大人になる前にはこういうようなことがあって現状打破でき、普通に人生を歩めるものかと思ったりしていた。  ○○しているので○○ようになると思っていた。  だがそうならなかった。  でももはや1度話せたからといって  その後ずっと誰とでも話せるわけではかもしれないことがわかってきたし、これももはやどうなのかと思う。  聴力を失えば自分の声が聞こえなくなるのでイケるのではないかとも思ったり。  視力を失えば何かを伝える手段は口しかなくなるのでイケるのではないかと思ったり。  (伏字の部分は全て当然ですが、知られてしまうとよくないので伏せているわけです。   メールかSkypeでなら教えられるかもしれない) ・正気を失う  正気を失えば喋ってしまえたりもするかもしれないが、どうしても正気を失わないし、1度話せたからといってその後etc.  大病を患えば正気を失うかもしれない。 ・知人が大病を患う  絶対に話さないまま終わりにしたくないわけです。  もう今しかないような状況になって良い感じの場が作られれば話してしまえる。  でも1度話せたからといってその後etc.そのことがわかってきたので現状打破の厳しさもわかってきた。  厳しい。。 ・拉致被害者のように拉致される  おそらく生活する上での自由度が低く、厳しくされる…現状打破する上で最高の形かもしれない。  そう前々から思っていた。  なので誘拐されそうになっても拒否りたくならない。  自由度が高いと自分の個性が見えてしまうので、やりくりしにくい。  こういうことを装った芝居をしてもらうというのもあり。  芝居なんて壮大なことをしようとする人はいないし、バレないようにすることは難しいのであれ。 ・独房で監禁される  そんなことがあれば、いきなり知人の元から離れられるのでいけるのではないかと思ったり。 ・ネットで知り合った人の家と、自分の家とを行き来できるようになる  上記の通り。  人前で本来の状態でいる時間を作れる…だがハードルが高め。 ・無能になる  認知症になって(ボケて)無能に(本当の障害者のように)なったとしたら、  自発的に何かしたりしてしまう(よって色々なことをやれるようになる)可能性がある。  そうなると今の人格は失われ、自分が自分ではなくなるかもしれない。  色々な意味で悲しくもある。  そんなでは意味がないかもしれない。  「戻らないから無能だ」的なことを言われたりしたが、逆です。  無能だったら戻っています。  「記憶にないほど昔から症状があるなら最初からと同じ」みたいなことを言われたこともあるが、  記憶にないというのは明らかに間違いな上、そんな昔ではない。  記憶力がないほど無能ならこうなっていません。  思考が働いてしまうからこそ、元に戻れなくなり、環境の変化に応じて良くも悪くも変わりながらより重度化した感じ。  本来ではない時は頭が働いていない?的なことを言われたこともありますが、全くもってそんなこともありません。  頭が働いていなかったら、逆に誤って普通にしてしまいます。  関係ないことを考えていて前が見えていないとうっかり普通に(上手く)動いてしまいそうになる。やってしまった例もある。  そのやってしまったら、それはミス、失敗。  頭が働いていなかった馬鹿だったということ。  だが知人にはそれをその逆(できた成長上達頭良いだとか)に思われる。本当空しい。  皆本当にできないわからないと思って対応してきている。  自分がこうなっているのは頭が悪いからではない。  頭が悪くなったら(ボケたら)逆に普通になるわけですから。  間違えないでほしい。  頭が悪いのかと思われて良くしようとされたら逆効果。  現実味のないことを言うが…  能力を抑え、欠点を作り、周りの人(知人)との整合性を保つために自分は神?によってこうさせられたようにも感じる。  「本当に」能力が知人と同レベル以下になり欠点だらけになったら整合性が保たれて常時本来になる。(治る)  そういう見方もできたり。  「人」がいるから、「人」を気にして、「人」によってこうなり、こうなっている。  もとから脳に障害がありどうもならないだとか本当にできないだとか思っている人は自分のことを本当に理解していない。  できるから、できないように見せることができている。  そんなにもできないように見えているのは、できるから。  即ちできなくなれば、良くなるわけ。  家族らは壮絶に騙されている。 ・大人になる  上記の通り。  大人になれば焦って障害者をやってられなくなり、やれなくなる…  容姿が変化し、人に見られるのも平気になる…  と思いきや、大人の領域は異次元ではなく、そうはなりませんでした。 ・地元で大災害or戦災が起こる  で知人が全滅すれば(自分は生き残る)確実に現状打破できる。  家族だけでも全滅すればなんとかなるかもしれない。親がいなくなれば割とこっちのもの。  だがそうなってほしいとも思わない。(それは嘘で、本当は皆死んでほしい ではありません)  「親は先に逝く」なんて言いますが、その逝く時は子供もたいてい還暦前後のほぼ終わった人。  親は子供が老人になるまで生きているのが普通。  “ずっと生きてる、いなくなることはない”そう思ってもいい。  今は70代で親が生きているケースも少なくない。  気が重い…。  逆に逝ったらだめだ、と思っている人はすぐに逝くと思い気を重くする。  人は良くないと思うことに敏感。  でもし本当にこういうようなシチュエーションがあったりで、親がいなくなったとしたらその場合、親の後継者は絶対に入りません。  常に気にされ、何かしようとしてくるのは親だけ。  その存在がなくなれば、どうあれかなり違う。  親さえいなくなれば多少姿を消しても気にされたり、騒がれたりしない。  その時は、一時的に親代わりになって処理しようとする人達(一部の知人)に捕まらないようにすることが鍵。  何とかできる自信がある。  本当に親代わりになるような人はまあいないでしょう。だから(だめなのではなくて)良いわけです。  保護されることはむしろ危険。  誰もいなければもし何かあっても自分で行動して何とかできますが、知人の監視下にいたら行動できないわけです。  動物のような存在でもないですから色々隠し、耐えるわけです。  実際に保護したら、知人はそのことを分かってくるものかとは思う。  保護して生かそうとする人に捕まったら逆に死ぬ。  知人と距離をおいてもらえるすきはなさそうですから、四六時中何もできず2,3日で死ぬ。  それでも形式上保護されないといけないとされる。  自分を捕まえようとしてくる。  家族から離れれば必ず誰の世話にもならず有意義に生きれるというのに、  国の法律上?保護して監禁した上で無駄に世話させられ、解放させることが現状では不可能という…  非常に馬鹿げてる。  自分が親を恐れていることも馬鹿げているような気がしますが、それもそれと同等に馬鹿げてる。  親に情報がいってしまうことを懸念してできないことが多いですが、いなくなるとそれがなくなる。そこも大きなポイント。  根本的に根本的に言うと「親に情報がいってしまうこと」それを恐れて何もできない感じ。  知人に情報がいくと知人から家族に親に情報がいってしまう。だから知人もだめ。  知人がいなくなると困惑することもありますが、最初だけ。  その時点で“絶対無理の壁”がなくなりますから、もう自由に動ける。  生活のことは生活しながら覚える。  知人0の状態から(人生)やり直すとしたら、もう過去の二の舞にはなりません。  (二の舞にはならない←と言っています。どれだけ消極的なのか?   何も考えずにそう言っているのではありません。   自分で自分を理解していない人間ではありません。   一度話してしまった人と話さないようにするとか逆に難しいことでもある)  「家族がいなくなるといい」とは言っていますが、「環境を変えるといい」とはここまで一言も言っていません。  なぜそれをそれに置き換えてしまう人がいるのか?よく分からない。  両者は全く違います。  家族との繋がりを持ったままなら環境を変えたとしても何にもならないですし、  家族との繋がりをなくせば環境を変える必要はありません。  家族との繋がりを持ったままの環境の変化なら、これまですでに数え切れないほど経験済みです。  家族がいるから絶対できないことがある。  家族がいなければできないことはない。  何せできない理由がないですから。だめな要因がない。  「家族がいるから安全、自分は家族に守られてる」とそう当の家族含む皆が思っているでしょうが、そうでもない。  いたら逆に危険。  「お前は1人になったら病気になって死ぬだろう?」  ↑そのリスクはむしろ家族がいる時の方が高い。  病気になっても家族はそのことがわからないです。  何とかして伝達しようとしてもだめ。「口で言わない限り」何とも思わない。自身の想いを押し通す。(そういうタイプ)  1人なら自分で行動して治せます。  家族がいたら何もできません。  今やそう。  知人がついていたら何もできないのだからいろいろなことにおいて逆に危ない。  どうしても逆に安全だと勘違いされてしまう。  誰もいなかったら保護者がいなかったらだめではない。いたらだめ。  怖いのはむしろ保護者。  認識させることは困難。  そのかわり自身が直接思ったことはなんとしてでも、なんとかさせようとする。  その思ったことは実際、間違いだったりする。  それで何かしてこられても、間違いなわけですからそもそも改善も何もなく、無意味。  無意味なこと、余計なことをされるくらいにとどまっていればまだしも、  身体に良くないことをされてしまうようなこともある。それが許せない。  家族自身が自分のことに関してどうだかよく分からず安心感を得られないがために、  誤解されているがために、そういうことをされてしまったりもする。  動物のように見られているがためにそれ相応の普通ならだめな手法を(強制的に)とられてしまったりもする。  危険。。  本当に動物ならそう扱ってくれた方が荷が軽いでしょうが、実際「思考力のある人間」ですから逆に恐ろしく思ったりする。  原理や詳細や目論見をわかっている場合は逆にそれの方が精神的ダメージが大きい。  自分で行動してよければ自分の納得できるやり方で何でもやれる。  普通は皆そうしている。自分のことは自分で判断を下すもの。  だが現状の自分は人間としては特殊で、全くそうさせてもらえないですから、それが怖い。  人に操られている限り、取り返しのつかない残念でしかないことをされ続ける。  リセットできないからにはそのまま生きるしかない。  自分の場合はひたすら残念なままでいるしかない。  「残念、無念、悲しい」で終わるしかない。  感覚や考えは逆のこともある。  それがその人にとってにどういうものなのかをしっかり考えた方がいい。  人に嫌われたくなかったらそれを考えて認識して行動、発言すべき。  いくつかの選択肢があって、その人にとってその選択肢は最善でも別の人にとっては最悪、  あるいは逆にその人にとっては最悪でも別の人にとっては最善というケースもある。  取り返しのつかないようなことにもなり兼ねない。とんでもない苦痛を与えることにもなり兼ねない。  悪影響のあることをさせられ、自分はそれが悪いことだと知っていてもさせられるがまま。  させた相手がそれをわかっておらず、良いことだと信じてやまず、意地でも押し通てくる。  拒否したら逆にこちらが「悪」、あるいは「良いことを拒否する=変な人」とみられる。  人間は難しい。  で話さないとなると、もうめちゃくちゃにされる。  それで自分は家族にめちゃくちゃにされてしまった。  …親が逝くにしてもどんな逝き方をするのかはわからない。  逝くことを察知して逝く前に「「親の手によって」」知人の元に預けられる…ということになったらマズイ。  “知人の元では生きられないことを知人は分かってくるものかと思う”とはいえよ…  それが唯一ありえそうな怖いシチュエーション。  それだと今の流れの中でそうなる感じですから身を潜められるタイミングがないかもしれない。  身体を中途半端に悪くする(心は健在)ようなケースもあまり良くない。  突然頭(心)が逝ってくれるケースが1番良い。  家族はなぜか自分は知人の元なら安全に生きれる、1人だと危険、死ぬと思っている。  ↑で言った通り、全くその逆なのだが。。  これをいつまでもわかってもらえないとなると、怖い。  家族がいるから生きれている、家族ありがたや←ではない。全く違う。  家族の手によって「日々」害を受け続け、嫌なことをされ続け、動きを封じられて何もできず、惜しいことになっている。  家族がいるから何もできないわけで、何もできないから家族の元にいるのではない。逆。  根本的なことを誤解しないでください。  ある意味、心が健在のまま長生きされたらとんでもない。  殺すと言っても軽視され弱者だと思われているため全く恐れられないだろう。  だから言える。  普通、嫌な人がいたら(それが家族でも)ある程度その人から距離を置くことができる。  自分はそうはいかない。  現状、(“大”騒動を起こさない限り)家族の元から脱する術がないから、絶望的。。  いなくなったら本当に万々歳。  できるだけ早く消え去ってくれることを心から願っている。  冗談で言っているのではない。  そうなったのはいままで家族が自分に対してしてきたことの結果。  「今はまだ何もできないからいなくなったらだめ」のわけありません。  今いなくなってくれて良い。  欲を言うと、その前に苦しめたい。  理解がなく、間違い、それにより良くないことをし続けてきたことに気付かせ、  そのショックでいなくなって(逝って)くれるのが理想。  家族との関わりさえなければ馬鹿げた間違いも無駄も何もない。  以前は「家族以外の人がだめ」でしたが、逆転して「家族がだめ」になった。  「家族も」ではない。「家族が」。  家族にも本来を見せないではなくて、家族「には」本来を見せない。  この方が良い。  誰もわかっていないが良い形になった  家族の人数と、この世にいるそれ以外の人の人数を比較してみればわかるでしょう。  家族以外の人全般がだめでは生きていけないが、家族がだめなだけならいつまででも1人で生きていける。  家族には「何を言ってる?全く良くない」と思われますが、こちらからしたら関係ない。  もう自分の人生にこの家族などいなくていいですから。普通ずっといるものでもないし。作り直すこともできる。 ・科学が発達する  容姿を変える、別の人に一時的に乗り移ってもらう、別の人に乗り移る。そんなことができたら…  自分の意志で動かすことができ、自分の変わりに動いてくれるロボットがあったり、  無免許で運転できる運転手の姿があまり見えない乗り物があったりしたら…  長期間何も取り込まず(食べず)に生きれる生物になることができれば…法律や金の概念のない時代へ行けたら…  現状打破可能。  科学ではなくても、そんなことができる「超能力者」が本当にいたとしたら、その力によりかなりの高確率で現状打破可能。  ネットで会話ができたりする時代になってくれてありがたい。でもまだです。  もっと進んだ時代になってくれると尚更ありがたい。  自分に関することの記憶を知人から消すことができれば、いなくなったのと同じことになる。 全部に言えることだが、根の浅いうちならそれで改善できたかもしれなかったが、 今となってはこれらを実践してもたいして進展ない可能性が高いわけだ。 現実として、本当にそうした(そうなった)時のことを考えて(シュミレーションして)みたら、 もはや進展することはないだろう。という結論に至ったことがほとんど。(全部ではない) 「今」となっては、「この状況」となっては、もう本当に厳しい。 でも↑こうすれば変われるのではないか?と多少でも思っているから、停滞状態になっているわけでもある。 色々試してみてあまり進展(変化)がなくても、その進展がない(ほとんど無意味だ)ということがわかって道が見えなくなれば、 それにより動揺して気が変わってきて違うことを模索するようになり、新たな現状打破への道が見えてくるような可能性がある。 いままで実際にされてきた色々な訓練のようなものは、この中のどれにも該当しない。 本当に意味のないようなこと。 元に戻る方法はない。祈る以外にない。←そんなことはありません。これだけあるわけです。 自分でこれならできると思うことこそができることだと思いますが、違いますか? 信頼、理解を得られ尚且つ、 自身のこれらの考えが何か1つでもいいと思ってもらえ了承を得られないと協力をしてもらえないので、そこもまた難しいところ。 △×の実行は厳しいものがある。 今現在の時点で「現実的に可能なもの」ではない(夢物語のような)案は シチュエーション全般と「テレパシーを通して会話する」くらいです。 くれぐれもそれが馬鹿らしいからといって、ほか30案含む全部を貶したりはしないでほしい。 しかし実行に移して良いかどうか悩んでしまうものばかり。 「恐れずに何でもやってみることが必要」だということはわかってはいますが。。 (自分の意思で気安く実行できるもの〈○の多く〉は実行済み) 「どこか遠くで1人で暮らす」の「2度と戻らない」しか方法がないとは書いておりません。 一応これらの現状打破方法全てが現状打破方法です。 もしほぼ無意味だとしても可能なものは一通り試してみたい。 何の過程も踏まずに今すぐに完全に現状打破できたりはしなかったとしても多少は意味がある。 具体的にどうするかを示すことが重要。 現状打破は諦めるべき? 無理と認定してそれを諦める意味もない。 諦める必要もない。 ↑は今の現状打破法 - 小1前半の頃の現状打破法 - ただ普通に話し出せばいい。それだけだった。 給食を食べればおそらくいけた。 そうはいかない状況になると、克服が厳しくなる。 - 小5の冬以前までの頃の現状打破法 - 当時はあまり深くは考えなかった。 克服できる時が来るとしたら、また「給食を食べて、突然…」みたいなふうに思っていた。 よくよく思ってみると、それでは困惑する。 現実的に考えみると、勉強の遅れを取り戻すこと、皆がこれまでやったことを全部やれるようになることを予めする必要があった。 実際にやってみてわかったが、それはそこまで難しいことではなかったので、現実的にできたこと。 まだ小5なら早々と取り返せた。 取り返したら、その後は実際の授業中に、皆と同じように動いて授業を受ける感覚を思い描いていく。 その暁には、安心感を得られ、学期の始めなど何か途中参加になることがない場面を狙って克服できた…可能性があった。 もし厳しかった場合、そこで転校すれば良かった。 しかし、当時の時点でも転校の意思を示すことはまずできなかった。 しかもある意味転校など絶対にしたくなかった。 あの環境が好きだったし、それに皆に手間をかけさせていたというのに、ここで逃げてはいけない。 まず「自分の心」が自分を許せない。 転校しないといけない、したい、でもしたくない…そういう微妙な心境に。 転校するくらいなら…と、目覚ましい勇気が湧き上がり、それを考えることでいける…ということも考えられた。 …惜しくも当時はここまで頭が働かなかった。 - 中学校前後の頃の現状打破法 - この頃になると「家族と繋がりがある」限りどこへ行ってもだめに。。 繋がりをなくせば良いわけです。 一人立ちする(家族との繋がりをなくす)ことが許される年齢になるまで待つ感じになったか? 実際にはその年齢になっても↑で説明したようになかなか厳しいものだった。 ずっと「今以上の年齢にはならない」としていたので(時間は止められないためそんなことできるはずないが)、 先のことは考えたくなく、あえてあまり考えなかった。。 即ちこういうこともあまり考えなかった。 自分が自分の親なら、自分?を現状打破させることができます。 今の状態からでも間違いなくできる。そういう自信があります。 なので同様な子供がいたとしても、何も怖くありません。 どうすれば良いかの答えは↑ 口先だけではなくて実践する。 知人がいなければ、なんでもないわけです。 知人の前で何かできるようにするのは理論上困難。良くなる傾向になったことはありません。 だからできる場面でできることをするようにする。それで多少何とかできる。 縁を切るのは最終手段か。そうせずとも思いきったことをしてまでしと最善を尽くせば結構な確率で行ける。 失敗しなければ何も学ばない。 つまり失敗しないようにしていたら学ばない、気付かない、分からない。 かといってあえて失敗する?のも難。 失敗を恐れないことが大事。 失敗しないようならそれでいい。 自分が家族の立場なら、家族ほど理解がないということは、「いくらなんでも」ない。 即ち何が良くて何が無駄かわかる。 自分なら、放置することもすんなりできるだろう。 理解があれば怖くないわけ。 想像の及ぶ範囲も家族より広いので、怖くなくす方法をほかにもいくつも見いだせている。 馬鹿なことに拘って制限かけたりもしない。 自分の「行動」が人を苦しめるとか、絶対に嫌なので、家族みたいなことはできない。逆にできない。 幸せになってほしいと思われていると、逆に不幸せになることをされる。 私物化もされてしまう。 自分にいたっては特にそう。 そういう普通の想いを持たれていると良くない。 何せそれが幸せではない。 自分が逆の立場なら絶対にそういう好意が裏目に出るようなことにはならないようにする。 「好意が裏目に出る」ことには厳重に気を付ける。 それがいかに大事かがわかるから。


                 


   現状打破 最有力案   
どうしても容易ではないが、やはり最も実現できそうなのは、「どこか遠くで1人で暮らす」をベースとした方法での現状打破。 それをやるとして、具体的に考えてみると、いろいろなやり方ある。 「いつ、どうやってそれをやるか」がポイント。 それに際してまず「今の世界(世界は地元周辺だけではない)でなるべく人と会わず(社会に出ず)生き続ける良い方法」 を確立させておきたい。 言い方を変え簡単に言うと、「社会に出ずに収入を得る良い方法」or「家族がいない中で収入がなくても生き続けられる方法」。 ずっとそうやってで生き続けるようなことはありませんが、(最低数日間だけでも)そうやって生きる過程は踏んでおきたい。 個人的にもそうだし、これを確立させることで家族の動向を変えられるかもしれない。 それどころでなく、確立できたら現状打破できる可能性がかなり高まる。 裕福な生活は望んでいません。 どんな状況下だろうととりあえず生きれれば良い。 収入は1日300円程度(1月1万円弱)で構わない。何とかすればそれで生きれますから。 “100万円”あれば9年間生き延びることができます。 9年分のライフと見てとれる。 十分すぎるほどのライフ。(1万円以上の初期費用が出る可能性あり) 今頭にあるのは自分の家の敷地内の気付かれない場所やテント・寝袋などに住み着き、コンビニなどに通って生きる形。 (↑部屋を借りる、ネットをやる、とは書いていません。よく見てください。「とりあえず生きれれば良い」とも書いています。  部屋を借りる、ネットをやるのに1日300円で生活とかおかしなことを言ってる=重度知的障害者ではありません。  外食をすることにはなりません。よく考えてください。それはしません) いつか尽きるものはだめ…かと思いきや、よくよく考えてみるとそうとも言えなかった。 現金を“貯めておく”のもいい。 3年生き延びられるなら十分安心なので100万ある場合、日に1000円近く使っても一応平気。 だが口座がないと現状では全く稼ぐことができない。。(稼がなければ貯めれない) 口座さえあれば何とかなる。 逃亡してもほぼ確実に(安心して)生き延びれるようになる。 「とりあえず(念のため)1人だけで当面生きていられる形」を作り、 そこから自分で少しずつまともな暮らしができるようにして社会に足を踏み入れていこうと考えています。誤解しないでください。 言っておきますが、(1人で生きるなら)別にいきなり社会に足を踏み入れることができないわけではない。 「それは家族に妨害され厳しい」+「確実性を高めたいからいきなりは控えたい」という感じ。 「もしも」のことは一々考えません。ずっとその生活のままということはないですし、それを考えていたらそもそも何もできない。 いろいろ対処できる自信も失敗しない自信もあるし。 「現状打破」はおそらく自分の人生至上最高に大きなこと。 それのためなら命をかけてもいいくらいの、そういう次元。 多少の期間その生活というのは、命がけでもない。 軽いもの。 命をかけてもいいくらいの次元。 怖い、心配などと言って止め続けていたらどうしようもない。 全ての生物は常にいつ死ぬか分からないもの。 絶対安全な状態などない。 絶対安全を求めてもきりがない。 ホームレスとして生きるのも、野生で生きるのも、海外で生きるのもおそらく容易くないが、あり。 …誤解され馬鹿にされてしかたないので1人で生きるとしたらどうするかをさらに詳しく言う。 現状打破するとしたら、1番考えられるのはこの流れ↓ ↑現状打破法の中の「失踪を装って実は家にいる」をやる、 あるいは寝袋と家の鍵とPCと多少の金を持って(全てキープ済み)家を出る。(それでしばらくの間は生き延びられる)                         それだと生活が厳しいので、日々快適な生活ができるようにする(欲を満たす)ための活動をしていく。 いろいろ良いものを自作したりするかもしれない。 (生命の維持に必要なものを得るため)コンビニに通うかもしれないが、 その場合覚えられてしまうと何となく行き難くなるので行く頻度を最小限に抑え、 尚且つ同じコンビニには続けて行かないようにする。 できれば最初はコンビニではなくセルフレジのある商業施設に行く。(店員〈人間〉とやりとりしたくないので) 遠くて毎回そこに行っていられない…的なことになったら心してコンビニに行くようにする。 満足に食料確保できず金が尽きて餓死するかもしれないので、 早いうちになんとかして口座を作って 定期的にある程度の時間無料でネットができる流れを確立させる。 そしてネットで金を稼いで生きる(1日あたり300円分以上稼げればずっと生き続けられる) 今や至る所に無料Wi-Fiや無料で利用できるコンセントが設置されているので、 ネットができる機器があればそれだけで生き続けることができる。 90年代00年代ではそうはいかなかった。時代が味方してきてくれている。 予めある程度金があればこの口座やネットの下りがなくても、それでも生き続けられる。 そもそもネットができなくなるようなこともないかもしれない。 親がいなくなった場合は既存の口座を使えるので(使っても問題なし)作る必要はない。ある程度金も手に入る。                         その生活に慣れてきて、知人に捕まらないと確信でき、 もっと高みを目指したいと思えてきたら試しにでも少しずつ社会に足を踏み入れていってみる。 自分だけの家を持てるもしれないし普通に仕事をするかもしれない。 皆苦しみ疲れと戦い続ける「社会」とやらで少しくらい自分の(本気の)力を試してみたい。 通常の人間を、いや「人間」を体験してみたい。 良い意味で拍子抜けしそう。 1人で過ごす際、「人に危害を与えたり迷惑をかけることはない」「死ぬことはない」少なくともこの2つは約束される。 ご理解ください。(皆わかっていませんが、そんなことができる人ではありません) 「現状打破したら(1人になったら)障害者として金をもらって生きろ?」 現状打破したらそれこそ何でもない人。 どう嘘をついて障害者に見せかけろと言うのか? そんなことはできない。 誰も全然わかっていない。 障害者でいたくない、プライドがある障害者扱いは嫌←ではない。 本当にできない(ハンディキャップを追っている人)なら問題ない。 本当に何もない何でもない人なわけです。 障害者として金をもらわないと生きていけないのにそうしたくないではない。 生きていけなくない。 だからそれはできないと言ってる。 何の障害者だと聞かれても何の障害もないから答えようにない。 何もないのに障害者の扱いを受けるだとか無理。めちゃくちゃ。 1日あたり300円分稼げるかorその時にある程度(3年分〈1年分でいいか?〉)のライフを持っているかどうかが鍵。 そんなで、現状だと「金を(使うことよりか)稼ぐ」ことがしたい。 今1番したいことはそれ。 通帳に記帳されずに口座を使う方法…あるいは口座なしで金を稼ぐ方法をなんとかして見出したい。 もしかすると電子マネーを応用すれば口座がなくても金を稼げる? 電子マネーすらなくても稼げそうだ。ATMは紙幣しか出ないようで、試しにやってみれる段階になかなかたどり着けない ようやくたどり着けた。 ポイントサイトでポイントを1000円+手数料分だけ貯め、最低額の1000円を(実体として)入手に成功。(この通り→動画) だがここまでに要した時間は約半年。半年で1000円しか稼げないようでは、厳しい。 次は別のポイントサイトでもっと効率良く稼げる方法を模索する。 1000円はたった3日分のライフ。これが3日で消えてしまうと思うと心苦しい。 1日分のライフを1日で得られれば安泰。 この「半年で1000円」が「1日300円」になればいいわけ。 そうなれば「社会に出ずに収入を得る良い方法」を確立したことになる。 即ち現状打破にかなり近づく。 何かおすすめの方法があったら教えてほしい。 そんなでネットでできる時間があとどれくらいかあれば、現状打破できそうだとも思う。 なのにネットがあったらできないやるなだとか言われる。 そう言われるのはその人が何もわかっていないからこそ。 どう考えようにもほぼ確実に言えることなので、無視しないといけない。 知人と少しの間距離を置くような場合も、これを確立できているかどうかがわりと重要になってくる。 もう会うことがないような場合なら、社会を応用していくようなこともできるわけだが。 今や、自分の金とされる金も知人が管理することになる。 どうしてもそうなる。 動物に金の管理などさせられないでしょう。それと同じ。 知人の管理下にあると、即ち知人に知られずにそれを使うことがでない。 知人に知られずに使えない、即ち使えない。 「その知人に意識がある限り」使えない。 なので「自分で使用できる金」を確保しておきたい。 自分で使用できる金というのは即ち、自分で隠し持っておける金。 で実は2005年頃からそう思って確保してきた。 長い年月を経て色々なシチュエーションがあって、塵が積もり山となりつつありますがまだまだ不十分。 ↑で言った「多少の金」とはそれ。 もっと確保しておきたい。それが現状でできること。 「自分で貯めて隠し持つ」ということをしないと「使える金」が手に入らない。 だから自分で貯めるしかない。 問題はわかるか?できるか?やり方知ってるか?買い物できるか?乗物乗れるか?話せるか?動作できるか?wではなくて、金。 だが知人はそれが問題だと思い込んでおり金は問題外。 「金があればいい」、それだけ。(現時点でそれだけ。嘘ではありません) それ以外のことに尽くすのは無駄な労力で、不愉快なだけ。 理解してください。 おそらく、保護者の元から逃げて現状打破する(=↑のようにして1人で生きる)ことになる。 それしかないように思う。 「保護者がわかってくれる」ようなことはない。 状況が変わり、「良いシチュエーション」が生まれたら、その時にそうする。 だから、最も重要なことはその時に備えて「金を貯めておく」こと。極力使ってはいけない。 そうそう金を使わないのはだから。 そもそも金がない。 こちらにとって「金がいかに貴重なもの」かわかりますか? 普通の視点で見てください。 何せ無収入。使ったらいつまでも金は戻らない。 しかも自分は誰にも理解されていないため、失踪するしかないわけ。 それに備えて貯めておくことが非常に重要でもあるわけ。 金を使ってもたいして惜しくない状況下なら、現状でももっといろいろなことができる。 「無能で金を使う能力がない」だとかよく思われるが、 本当、仰天しすぎて仰天を通り越し、唖然とする。。 信じられない。 頭がおかしいと思われているとそれ。そういう意味に捉えられる。 というか、頑なにそういう意味にしか見られない。 そんな無能なら、ゲームで遊ぶようなこともまともにできないはず。不幸人。 「良いシチュエーション」というのは、保護者の心が消えた(自分を忘れた)時等。 その瞬間にすぐに↑このようなことをやり、現状打破する。 (「死んだ」ようなものだが、←その瞬間ではない。実際はドラマのように心と体は同時に死なない) それなら、「自分が逃げたことにより起こること間違いなしの大騒動」を軽く済ますことができる。 なぜって保護者らしき人が一瞬不在になるから。 大騒ぎするのは保護者。 その時に逃げれば、逃げたことが誰の責任にもならないのがまた非常に良い。 保護者不在になるタイミング、それは絶対に逃してはならない。 体が生きている場合、どうしても「心が生き返る可能性」が多少ある。 (生き返らない方がいいが)生き返ってしまったとしても、まあ良い。 死んでいる間にいける。 もしまた同じ保護者に保護されてしまうにしても、その間に1人で生きていれば、1人で生きれることがわかるので良い。 「今」、そのシチュエーションがあってそれをやるとなっても(まだ1年分もライフもないわけだが)、まあなんとかなると思う。 自分は誰しもの想像を遥かに越えている水準。 今逃げたら、保護者は死に物狂いになり、通報された上で「自分は障害者と認識させられている知人」総勢で大捜索される。 間違いない。 それが怖くて逃げれない。 死に物狂いにならない通報しない知人にどうこうさせないというなら(←まあありえない)、今にでも逃げる。 「なぜ(こういった現状打破法を)実行しない(逃げない)?大人なのだから自分の意思で好きなようにできるはずだ」 的なことをと言われましたが、間違いです。 そういうこと↑になるわけ。 あと家族は“いる限り”無視することができない。 いや、無視してはいけないとされている。 障害者ということにされてしまった今の状況ではいろいろやってはいけないということにされていたりする。 家を出れない自力で生活できない(←誤解)のに、↑こういったことを言うはずありません。 これら言葉が何だと思っている? 家を出るのは出ればいいだけ、自力で生活するのはただ自力で生活すればいいだけ。 それが「無理」だとか意味がわかりません。 自分にはわからない。そんな次元。 腹を満たす手段?店で何か買って食う。それだけ。 当然のことすぎて、言わないといけないことだとは思いもしなかった。 言っていなかったのはだから。 何が自覚ですか? そんな簡単なことを無理と自覚だとか笑えます。 知人がいなくなっても確実に死にません。 試しに放置してみればわかる。 「死なない、何もない」ことが。100%と言っていい。 どれだけおかしいやつ悪いやつと思った上で馬鹿にする? このまま(現状維持永遠継続)でいいとは思わない。 「無駄だらけで惜しい人生」だし、もう「演技を見せるのは恥ずかしかったりで無理」。何せ大人。 やりたいこともある。 あとこのままで良くない大きな理由がもう1つ。 家族は近々、日々24時間演技して生きさせようとしている。 演技だの実は真逆の別人だのそういうことは何もわかっていないから、平気でそんなこともさせられる。 日々24時間一生涯何もできない人を演じて何もせずに生き続ける、それがどれだけやばいと言えることか。 いざそれをやればそれができないことを理解するだろうが、その際並みならぬ危険に晒されることになる。 自分に残された時間はもう残り少ないかもしれない。 演技だとか、知人が受け入れないから理解がないから拘って真実を知ろうとしないからとか、 常識肩書きルール動かす人の気持ちがどうこうとか、そんな理由で自分は終わるかもしれない。 皆、馬鹿げてる。 その(日々24時間演技の)リハーサル的なシチュエーションがあったことが何度かあるが、 いずれも想像をも越えた「危機的」な状況に陥っている。 少しだが逆に日々24時間演技させないで生きるリハーサル的なシチュエーションがあったことも何度かあるが、 その時は当然、まずそのようなことはない。 家族は何もわかっていない、何も知らない。 皆あれこれ逆のことを思っているが、安全、危険の認識も逆。 24時間演技(知人に託す)のは安全(安心できる)、24時間演技させない(1人で生きる)のは危険(いきなり大動揺)という有り様。 重度障害者ということにされていて、重度障害者の常識を当てはめてこられるので、 即ち人に世話させるべきそれが安全1人で生きるなどとんでもないといった認識を持たれる。 家族らは自分を「できない」「無知」「悪人」と本当に思っている。 (誤認。話していないから何もわかっていない。わかっていないこともわかっていない) それにより1人で自由に動くことをかってに危険視してこられる。 早いところ失踪した方がいいが、その時は慎重に見極めないといけない。 組織の中で知人と過ごすようなことは、普通のそれとは大きく違う。 演技で意識的にしないようにしているわけ。 「頑張ったり」「好きにしたり」そういうことは片時も一切しない。 それが、そういうことをして過ごすよりも有意義だと思う? ただ時を無駄にするだけ。 加えてどういう苦しみを感じると思う? …わかっていない。 知人らは自分を現状打破させることは恐ろしくてわからなくてできない難しすぎることだが(馬鹿らしい)、 自分では思いきればその時点で即できる。いつでも即できる。 ただ家族の元から去ればいいだけ。 それだけで知人らが問題だと思っているようなことは何1つなくなり普通に人間として生き続けられる。 何も難しくない。 そういうもの。病気を治すだとか的外れ。意味不明。 できなくてダメではなく、家族ができないと思っているからダメ。 本当、馬鹿げている。 どう誤解され、何されるかわからない。 いままでも、ひたすら間違われ、とんでもないことをされ続けてきた。 話していない人に操られるということは本当に恐ろしい。 のんきにしていれるはずがない。 故意で「それはできない」と見せかけるように演技している。 本当にできない人と同じ扱いをしたら、悲惨なことをし兼ねない。 考えてみればわかるでしょう? 障害者と思われているから、そう見せかけるようにしている。 本当に障害者と同じと見てそれなりに扱われたらとにかく見せかけざるをえなくなり、一溜りもない。 故意。 「できない」だとかそういうことは何もない。 知人らはひたすら「できない」「できない人」としか思わないわけだが、その認識が丸々間違い。 そう思ってどうこうしても何もメリットなし。間違いだから。的を外しているから。 普通の人間だということを堂々とバラしてしてもいい状況下(今の知人のいない世界)で生きることを夢見続けている。 帰らぬ家出以外にその状況下で生きる夢を実現させることができる現実的な方法はない。
- 現状打破実行時に持っていくもの -
寝袋兼バッグ(できればモバイルホーム)
濾過機兼水筒
PC(電池長持ち)
携帯
布巾
発電機、蓄電機
小物類(歯ブラシ、櫛、鏡、ハサミ、ピンセット)
できる限り、少ない方が良い。 大きな荷物を持っていると怪しい。
- 現状打破後 理想の日課 -
↓時間  ()内=費やす時間

7 任務(16時間36分)
8 ┃
9 ┃
10┃
11┃
  ←食料・水・電気調達(10分)
  ←洗浄(3分)
12┃←昼食(0分)
13┃
14┃
15┃←スポーツ(10分)
16┃
17┃
18┃
19┃
20┃←夜食(0分)
  ←口内ケア(3分)
21┃
22┃
23┃
0   睡眠(7時間)
1   ┃
2   ┃
3   ┃
4   ┃
5   ┃
6   ┃
全くこれに近い日課にはできず、ほとんど空想になってしまうのが現状。。


                 


   まとめ   
重度障害者の歩む人生は、通常とは全く違う人生。 動物の人生?が人間と違うのと同じ。 自分は重度障害者の特殊な人生を「体験」してしまった。 通常の人生とそちらの人生、どちらが良いと思いますか? …こんな人間は他にいない。 自分のような経験をしている人は0ですから、共感してもらえる人も0。 説得力を持って何か言える人もいない。自信を持ってアドバイスできるような人も普通いない。 重度障害者は、普通の人のいる舞台とはそもそも別の舞台上にいる感じで、普通の人に通用することが通用しない。 生きる世界が違う。 ほんの少しでも変化を起こしてしまったりすると、保護者を始めとした自分の関係者達に報告が行き渡る。 恐れ入る。何もできない。 知人らがネタと見なすようなことがないように厳重注意し続ける必要がある。 現状維持し続けていないと報告ネタを与えてしまうわけ。 本当に囚われの身になっている感じ。 ほとんど自分を自分のものにできない。 それが重度障害者。 自分の全てを人に支配されている。 大人になっても支配者から解放されることがない。一溜まりもない。 一生涯人の操り人形。不公平。 本当に重度障害者で何もできないなら(重度障害者本人にとっては)良いシステムなのだが。 本当の重度知的障害者は、馬鹿げたことも馬鹿げたことだとは分からない、悪いことも悪いことだとは分からない。 何でも良いと思えて幸せ。 自分の身の回りには(本当に)自分より能力が下の人しかいないので(普通の意味で。独自的な意味でではありません)、 自分から見ると馬鹿げたことだらけ。 なのに何も伝えられず不満だらけ。 だからある意味「不幸」。 分かりますか? 現状維持していたらいつまでもそのまま。打破できたらより幸福になる。 知人からすると思いもよらないようなことだろう。 信じられず、信じないだろう。 逐一、もっと良くできるのに、なぜそうなのか?みたいに思う。 親が○供に操作された上で何も言えないような、師○が弟子に操作された上で何も言えないような、そういう感じ。 身体障害者で体が動かない等ならそういう不幸は多少はしかたないかと思えるかもしれませんが、 自分は本来、凄く動けますし疲れもしない衰えた要素も全くない衰える気配もないので、しかたないとも思えず不幸。 重度知的障害者は自分でやるよりも人にやってもらった方が良くできる。 人にやってもらうことでより良いようになるのだから、良い。幸福。 「できないからやってもらえる→幸福」「できるのにやられる(「下手に」やられる)→不幸」 重度知的障害者は前者。自分は後者。 「できる人ができない人にやってもらっている」「知ってる人が知らない人に教えてもらってる」とかありえない。 「できる人がよりできない人にやってもらっている」 「知ってる人が知らない人に(知ってることを)教えてもらってる」とかありえない。(何の得もなし) でも本当にそうなっている。 こんなことがあるなんて自分でも信じられない。 自分よりできない人に自分のことをやってもらうというのは本当に苦。 こういう普通ありえないようなことに関して、人はどう思うのか?もっと知りたい。 何でも「自分が一番できる」ので、自分でやるのが一番良い。 人に何かしてもらうことが全然良いとは思わない。 そういう自分に限って何でも自分でやらず、人にしてもらっているという。 誰にとっても良くない嬉しくない。 そういうことになってしまっている。 身近な人達は、できなくてやってもらいたがる逆のタイプ。 …いろいろ哀れ。 「できない」との見方ができないこともないが、 そのできないは「できないと思っている人に合わせてできないふりをしないようにすることが"できない"」です。 このような人はまずほかにいない。 誰しもが誤解し、無意味なことしかしてこない。 「できないと思っている人の前でできないふりをやめること」それができない。 それ以外に目を向けたら的外れ。だが誰しもがそのそれ以外にしか目を向けない。 皆が思う「できない」とは全然違う。 自分がどう思おうと関係ない。 操り人の思うことが自分の全てになる。恐ろしい。 家族の思いのままにされ続けるだけで、「不満と嫌気に満ち溢れた人生」でもある。 ちょっとしたことから重大なことまであれこれ…挙げていったらきりがない。 だが家族は自分に嫌なことをしてきた(している)自覚0。 どうして良く思っていない(思わなくなった)のか全くわかっていない有り様。 人にショックを与えたり嫌な思いをさせたりしている自覚が全くなく、いい気でいる。何か恐ろしく感じる。 あれこれ命令される。 障害者にされたことで永遠に、独立してはいけない人、人の言いなりになり続けないといけない人になってしまった。 普通、時が来たら保護者とされる人の存在はなくなる。 自分の場合それが永遠になくなってくれない。 なんということか。不平等。。 自分が直接嫌なことだけが嫌なことでもない。 人が自分の世話をしてきて人に手間をかけさせている、そのことの方がさらに嫌。 本当に嫌な社会生活。 理解してほしい。 そんな単純な人ではない。 世話をしてもらう自分にメリットはない即ち誰にもメリットがないしそういう意味でも嫌。 嫌な社会生活が家族の手によって強制的に形作られてしまった。 そういう意味でも知人と会わないのが1番良い。 今のままなら、知人に会いに出かけたいだとかまず思わない。 今のままではなくなったら(現状打破したら)、会いに行っていいではない。 皆(本当に)場違いな場所にいる人達ですから、基本もう会わない。 そう思わないなら、それは自分のことを理解していないから。 本当の重度知的障害者は何もわからず、何も考えられないので、↑↓このようなことを思うこともない。 だから問題も起きず、この世は安定している。 重度知的障害者はできないからできる人にすがりつき、人のこと何も気にせず幸せ。 自分はできるのにできない人にすがりつかれ、不幸せ。 家族らも皆、こちらの嫌なことをすることに徹し、喜ぶことをしてしまわないようにしているようにしか見えない。 世話人不要なのに世話されないといけないという。 世話人は邪魔なだけの存在。 世話を必要としていない。力を必要としていない。 知人らは人生を潰すほどの酷い行為をしてくる邪魔物でしかない。 知人らのことを良く思っていないからこういうことを言うではない。 そういう行為をしてくるから、良く思っていない。 感情で生きている人と理屈で生きている人は全然違う。 自分の場合は理屈で生きているので、特にその感情で生きている人に操作されるとたまらない。 ゲームの主人公はプレイヤーを選ぶことができないのと同様に、自分は自分の操り人を選ぶことができない。 操られないといけないという時点で(言ってしまうと)最悪。 ゲームのキャラクターには実質感情がないですが、自分にはある。恐ろしいことに。。 しかもゲームと違って一度何かやらかされたらリセットできない。現実ですから。 操り人は自身の気持ちが全て。 動かされる人の気持ちは関係ない。 最悪なことを喜ばれたりするようなこともある。 自分がだめでも知人(操り人)が良ければめでたし、自分が良くても知人がだめなら残念ということにされる。 知人は後味悪いままでくたばったりはしない。 やると決めたことはどうしても遂行される。 自分からする最悪なことでもそう。 自分はどれだけ後味悪いままでくたばることを強いられていると思う? 不公平。 家族の所有物から外れられたら、どれだけ幸福か。 人間なのだから、操作されずに自分で動きたいと思うのは当然。 仮想人間でも、物でもない。 操り人の思うことに基づく、操り人の願望がとにかく優先され、ほぼ全く制御が効かない。 こんな状況、自分以外誰も耐えられないだろう。 自分自身が人に動かされるのは嫌なのに、人を動かすのはいいとかもありえない。 自分自身の好みや考えこそが万人受けする基準ではない。 自分自身という存在はそんなふうに思えてしまうのかもしれないが、それはない。 本来の自分は遠にある程度の高みに達してる。 もう何もする必要もない。 問題は知人。 知人は自分はできると思っていない。 知人に自分はできると思わせないとどうもならない。 そのことを知人はあまりわかっていないように思う。 個人的にはそういう「知人に思わせる」ようなことに力を入れたくない。 馬鹿馬鹿しい。 大人なのだから関係ない。 人に操られること自体、本当に嫌らしいこと。 知りたくないから教わらないのではなくて、知っているから教わる意味がない。 やりたくないから練習しようとしないのではなくて、やれるから練習する意味がない。 誤解しないでください。 何度も言いますが知ってるできると思い込んでいるだけではありません。 自分はあらゆることが通常とは逆。 頭を良くすること→だめなこと 自信があること→良くないこと 人に思われること→真実とは逆のこと 自立すること→だめなこと 自分の場合こう言うとこう言われる↓ 人を頼らない→それは悪いこと、頼れ 覚える、忘れない→それは悪いこと、忘れろ 人のことを考え世の中のために生きる→それは悪いこと、自分のことだけを考え自己中心的に生きろ 障害者の観点で見て↓ 保護者がいなくなること→喜ばしいこと、救われること 世話されること→嫌なこと、危険なこと 世話→してもらうではなくされてしまう 知力が下がると→健常者になる 自信→満々 配慮→されないと困るのではなく、されると困る 障害→ない 問題→「できないこと、わからないこと」ではなく「できてしまうこと、わかってしまうこと」 その他↓ 親は子供を→過小評価する(ある意味、何もできないわからない知らない子供だと思い込む。言わば逆親馬鹿。馬鹿だと思いたい。       そうとはまさか思わず、超控えめに言っていることを過大評価と思い込まれたりも) 自分をサポートする人→自分にサポートされるべき人 ↑全て通常は逆。 これが真実。 皆、こういう自分の真実をわかっていない。 このような人はまず、ほかにいない。 「反人間」と言っていい。 家族は自分を無能だと思いたい願望でもあるかのよう。 有能ならメリットありだが、普通に考えると無能でメリットはない。 なのにその様。変なことに。。 ちなみにこのこと(事情)は公にしていません。 このページ以外の場所でこのことが分かってしまうようなことは書きません。 なのである場面で自分は何もせず、見ていただけ聞いていただけでも具体的にそうは書きません。 そういう場合は「○○した」ではなくて「○○していた」などと微妙に抽象的に書いていたりします。 自分が←とはどこにも書いていません。 「誰が」(○○していた)かは分からないようにしたりしている形。 そんなで嘘にもなっていません。 作り話をしまくり人を騙し続け人をあざ笑う地獄に落ちるべし極悪人ではありません。 複数の人生を持つ人間?でもありません。 記憶が後から次々と塗り替えられるわけでもありません。 矛盾はありません。 おかしい異常な人間ではありません。 誤解しないでください。 どれだけ言ったらわかるのか? 実際には障害者ではなくて、「特定の人の前で障害者のふりをしている人間」←だと言ってる。 実際は体は健全、これだけ健全な人はほかにいないというくらい。 だからこそそれを隠すためにそうしている。 「特定の人(知人)に障害者と思われるようにしている」が正しい表現か。 「重度の障害があって不幸」なのではない。 「知人に囚われている」から不幸。 何不自由ない身体ですから、それは幸福。(知人にも本気でずっとそう言われていた。高校から一変してしまったが) それなのに知人に囚われていて何もできないから不幸。 ↑この意味がわかりますか?意味を変えないでください。 高校から一変した要因は、 続く 今言えることは以上。 身内や本人でないとわかりにくいことだと思います。 誰が読んでもそれなりにわかるよう、不明確な点がないよう、嘘だと思われないよう、 解釈し間違いされること、質問を必要とすることがないよう、徹底して説明したつもり。 必ず“説明不足だった”と思うとこになるが今の時点ではそう。 少しずつ書き足していっていたら、文章の構成に統一感がなくなってしまった。 なぜこうなったのか?なぜこのままなのか?というと、こういうわけです。 念に念を押して言いますがこういう理屈です。 緊張によるものでもなければ正気を失うわけでもなく、自信がないわけでもありません。 1つ間違われると全くもって的外れな思考をされてしまう。 「緊張しない」というとそれは間違いになる。 「緊張するからこうなるわけではない」と表現するのが正しい。 ここで言ったことは「この通りの意味」です。 意味を変えて自己流に解釈しないでほしい。 それをやられていたら間違っていることを言われ続けるだけになります。 この通りの意味なので同じことを他者が言いさらに推すという意味深な行動をする意味もありません。 逆のことを言うわけもありません。真実です。 そうしたということは、それがいいと思い、そうすることにしたからそうしたわけです。あまりにも当然。 ↓何か思ったこと、意見などありましたらどうぞ。 どう捉えられるか?どう思われるか?どういう意味だと思われるか?どう考えられるか?未知数なわけですが、 その未知数である皆さんの考えを教えてもらえると、考えられることの幅が広がり、新たに気付くことがあるかもしれない。 でもこの通り、考えられることを考えきった上で現状を形作っているので、 他人の意見を聞いて“なるほど”と思うようなことがほとんどない(即ち人の言葉が役立つことがない)のが現状。(リアルでもそう) (子供の頃は当然ありましたが〈人の言葉が役立つこと〉、世の中のことをある程度知り尽くし考え尽くしてしまったために、  そういうことがほとんどなくなってしまった〈何も考えず、役立たないものと思い込むということはありません。  役立たなかったという形にこじつけているでもありません。嘘でもありません。  言われたことに対して聞く耳持たず聞にせず、何を言われたかわからないがために、  何を言われても「知らなかった、なるほど」とはならず、何でも知っているつもりでい続けているでもありません。  何ですかそれは?いい加減にしてほしい〉) 逆にこちらの意見に対して相手が肯定的な反応を示すことも一切なし。 非難するような意見(ここでもそれしかない)は相手の大きな勘違いによるもの。 否定される身からすると、否定は自分の認識が間違っているかもしれないことを眼中に入れた上でするべきだと思う。 凄く失礼なことになりかねない。 (非難されることしかないため、コメントが来た場合  「不満を持たれたor何か悪く思われたor馬鹿と見られたor怒りや憎しみを抱かれた」ものと認識します。内容を見なくてもわかる) でもそういう意見でもあると、より認識しやすい文章に直すことができるので収穫がないわけではない。 否定合戦になるだけで、得られるものが少ない。 絡んでくるのは一部の同じ人のように思えるし、リアルの場合は全く違う。 ほぼ全ての人間がそういう反応なのかどうかは今のところまだ定かでない。 ほとんどのことを間違われ、間違われっぱなし。 「正しいはずのことを無意識に脳内変換して間違いにしてる」どう考えてもそんなではありません。単純なことです。 すでに知ってること考えたとのあることしか言われないとナメられているような気しかしない。 それもこれもすでに考えた上でこうしているわけですから、受け入れることにはならない。 もし矛盾がある…と思うことがまだあったとしたら、それはこちらの説明が足りていないからです。 「個人的に矛盾してる思うこと=100%嘘」とするのは間違っています。 まず信じてもらえないのではどうしようもない。 自分がそうだと他人もそうだと思うもの。 それで自分の中で定義ができる。 その定義は他人には当てはまらないことがある。 それで矛盾が生じて対立し憎む。 自分にとっては絶対なことも、他人にとっては絶対ではない場合があります。 自分が「それとこれとは絶対結び付く」と思っても他人の理論的にはとても結び付くようなことではなかったりします。 思いもよらないことだったりします。 決めつける前によく考えてください。厄介になる。 自分がそうだからといって他人もそうとは限らない。 同じ「人」と言えよ、脳の作りが全く違うこともあります。 何に価値を感じるか?何をしたいか?どう考えるか?どう見るか?どういう願望があるか?どう思いたいか? 何が理解できるか?何が理解できないか?何が苦か?何が損で何が特か?何を重要視しているか? 何に目をつけるか?どこをどう見るか?何が絶対か?何に関心を持つか?どう思いたいか?何を信じているか?どんな心か? 何に幸せを感じるか?何をどう感じるか?感覚をどう感じるか?人それぞれ。 何をどうするのが良いかも人によって違う。 了承を得ずに相手のことを他人が決めるのはいけない。 人は自分の思い通りには動かないもの。思い通りに動かすことを望んでいては幸福になれない。 「自分は嫌な人達とは違って良い行いをしてる」ほぼ誰しもそう思っているが、それは違う。 どんな人でも、誰かから見ると違う。 皆自分自身と同じようにすることが良いことだと思う。 人を皆自分と同じにしなくてもいい。そうさせなくていい。 自分自身こそが最高の人間ではない。 理解してほしい。 人はそれぞれ別のやりたいこと、別の幸福がある。 押し付けられたら不愉快だし面白くない。 分かってないのに分かっているフリなどもしていません。事実です。 していると言ったらそれこそ嘘を言ったことになります。 自分の考えたことがない何か、なるほどと思えるような何かを教えてくれていたら最高です。 それがないからナメられているような気がするばかりなわけです。 分かると思い込んでいるだけではありません。 分からなければ“分からない”となるし、分かれば“分かる”となります。 当然です。意味が分かりません。 同様に、できないのに“できる”と思い込んでもいません。 “全て意識とは違い、無意識に別のことを感じている、 無意識に逆のことを思っている”そんなこともありません。そんなことがありますか?? 自分で言っていることは自分でわかっているからそう言っています。あまりにも当然。 他人の口からオウム返しするような謎の行為は不快で逆に気力をなくさせます。 このページの文章に関しては頻繁にあちこちに何か書き足していっている感じなので支離滅裂になってるかもしれませんが、 「どんな事を言ったり書いたりしても支離滅裂」ということもおそらくありません。 1つ1つの行が同じ時に書いたものではなかったりするので、一貫性がなくなってもしかたないでしょう。 「悲劇の人物」を演じて、ネットの中の有名人になるべく作り上げた「嘘」(本当は凡人)でもありません。 自分が馬鹿で嘘つきだから世間で生きていくことができないということを(障害者の状態ではなく、この本来の状態を見て)察し、 家族が「障害者」にしてあえて自立できないようにした。 これも(100%以上)ありえません。 (これでも分からないかもしれませんが)なんとか理解してもらえるように説明しています。 理解を得られるまで書き足し続けます。 「理解を得られない=説明不足=書き足すことがある」ですから。 (「適当に少し」書き足し続け、書き足し続けていることにしているではありません。そんなに貶したいですか?) 理解してもらえたら長文にはならない。 伝えることというのは難しいこと。 「言葉が分からないから長文だ?無知だ?」 当初は短文でした。 誤解ばかりで伝わらないので補足していき長文化していった経緯があります。 「理解してもらえないことによって」長文になっています。 短く書く文章力がなくて(このようにしか書けなくて)こうなったわけではありません。 言葉が分からなかったら書けることも少しですから逆に短文で簡潔になっているでしょう。 意味がわかりません。 にしてもこのように色々なことを驚異的に長々と一まとめにして書く人はほかに存在しない。だから常識知らずの馬鹿だ? “存在しない”“常識外れ”だということは最初から分かっています。 だがそればかりは、変えるつもりはありません。 リアルでは誰にも何も言えないわけです。誤解されたこと、思ったことをここにでも書いていかないと気が済みません。 これが自分のやり方。独自のやり方。 常識知らずではなくても、常識外れなことをあえてすることがあります。 「疑わしい?信じられない?理解しがたい?この話が本当だという証拠がない?  証拠がないので事実かどうか誰も分からず、どうもならない?」 「本当」と言っても分かってもらえない世界。言葉は何のために存在するのか? …もし作り話ならこんなにも熱心に(必死に)書かないでしょう。 「小説を熱心に書くのと同じ。熱心に書いていてるからといって真実とは思えない?」 ともかく嘘の可能性は視野に入れないでください。 だから、嘘も言い訳もないと言っています。 誰が何のために嘘の話を書くことにこんなにも力を注ぐというのか? 嘘なのに何百回と更新するとか、そのような人は恐ろしく異常でしょう。 個人的にはありえないと思う。 「本当なら笑えるような話ではない」のに、誰しもが信ず、平気であざ笑い馬鹿にし冷たい目線で見るという…。 よくそんなことができるもの。 人間というのは信じられないような生物。 (こうなったら、もうそんな人間に考慮してこの話が真実であることを示す物的証拠を見せることにした↓↓) 自分はこのような、ほかに例を見ない常識外の人間。 常識外のことなど誰も信じないもの。 人は普通しか受けれないもの。 常識外、想定外、規格外、例外…そういものは基本、「ない」ものと見なされる。 だからこの話は本当に誰しもが「嘘」としか思わないのだろうか? なら、哀れだ。 「確実に嘘」と認識し、それをベースにされてはしかたない。 確実に嘘ではないと認識してください。 自分のことをよく理解している人はいません。 1人すら、いません。 もしもここで人生が終わったとしたら、そのことが屈辱になる。 日々不愉快なことばかり。 何が不愉快かって、「誤解されること」が不愉快。 それが不愉快。 言われること思われることの9割が誤解。 つまり言われることのほとんどが不愉快。 誤解していることをその人に教えられたらいいわけだが、それができないから不愉快。 「言われたくないことを言われると嫌」ではなくて、「間違えられている」から嫌。 言う人は正しいと思っているからそう言うわけなので、その人はこう言っても受け入れない。 誤解されるとこちらが誤解しているものかと思われたりする。 誤解しているのはそちらだというのに。 人は自身の出した答え以外の答えはないものと見る。 誤解だらけで本当に面倒。 誰からも大きく誤解されて色々悪いやつと思われている。 このままでは終われない。 人は人のことがわからない。 人は違うので解釈も違う。 人による人の言葉の解釈はよく間違ったかってな解釈になる。(誤解する) 自身の思ったこと以外の解釈があること、自身の解釈が間違いかもしれないことを視野に入れてほしい。 全く同じ1つの言葉でも人によって真逆の意味に捉え合ったりする。 そうしていると見たりそうしていないものと見たり、 信じているものと見られることがあれば信じていないものと見られることもあったり… 人は「こうであるべき」という持論に反することに敏感で、そこに意識を強く向けることで悪い方向に持っていってしまうのか? 本当に人間は難しい。 同じ言葉で言い表す「感覚」でも何をもってその感覚を感じているかが違ったりもする。 人間と絡むと、思っていた展開とは全く違う展開になる。 悪いと思われていることで悪い方向へ持っていかれ、より悪いと思われる。 良いと思われていたら良い解釈へ結び付け良いように思う。 悪いと思っていたら全てが悪く見える、良いと思っていたら全てが良く見える。 悪い人と思っていたら悪いことはその人がしたこととする、良い人と思っていたら良いことはその人がしたこととする。 そしてかってに確信を強めていく。 悪い人だと思う人が良いことをしたと言っても、信じない。 良い人だと思う人が悪いことをしたと言っても、信じない。 そういうもの。 結局思うこと信じること印象しだい。 できない人と思っていたら、何も知らない人と思っていたら、普通と違う人と思っていたら…それも同じ。 そう思われていたらそれ相応の解釈をされる。 そんなでずっとその人の思っている形はそのまま。 人のその「思うこと信じること印象」を変えさせて真実を理解させるのは難しい。 本当に人間は厄介。 そういうように思っていると、そういうことを考えて不確かなことはそういうことにしてしまう。 悪い人(悪いと思われている人)はその人自身のあらゆることを「悪さの原因」とされ、あらゆることが悪いことにされる。 どこもかしこも何もかも悪く、良いことはない。 「誰一人理解していない、誰しもから全てを悪く思われる」などというのは そう思い込んでいるのでもなくて、「結果」からしてそう言っている。 こういう結果が出ていることは不可思議なので、潜在意識ではむしろ逆のことを思い込んでいる。 誤解しないでください。 「自分はこういうやつだ」と一度思うと、誤解でもその通りに見える。 何でも信じていれば、全く違っていても、信じる通りに思える。 これには驚き。 自分が重度知的障害者と同類にも見えてしまう。 信じていることが正しいかどうかの確証ない。 たいていの人はそれに気づいてすらいない。 自分自身が良いと信じていれば、人が否定していても関係なし。 信じられない。 そんなことができる人の心は頭はどうなっているのか? 現実の結果を自分で見て判断してほしい。 特に感情で動く人は、結果で判断しない。 曖昧な思考でいつまでも曖昧なまま。 よほどのことがないと認定しない。 なんとなく信じたことをいつまでも信じ続ける。 言行は真実か、対等か、馬鹿にしていないか、メリットがあるか、間違っていたらどう思われるか、 自分自身の願望が出ていないか、そういうことに照らし合わせてからするべき。 人の心が読めないのは誰? 人は皆「自分は悪くない」ものとする。 自分の悪さは自分にはわからない。 皆、自分のことはほとんど誤解している。 こう言っても皆、自分自身が誤解しているとはまさか思わない。 正しいと思って言っているから、「自分自身は」わかっていると信じる。 「家族は」わかっているではない。家族も同じ。 皆かってに自分を構い、無意味なことをし続けていて哀れ。 哀れなことをさせてしまっている自分も哀れ。それでなくても哀れ。 構われると無駄に時間を奪われる。人の時間も無駄に奪っていると思うとまたたまらない。 自分の理解者が1人も現れず人生が終わってしまったらと思うと本当焦る。 本当にこの世に理解者0で終わってしまうかもしれない… 「頭が悪い」と、自分自身ではなく相手が頭が悪いものかと思い込んだりする。 はっきり判断ができず、単純に自身の思ったこと信じることに任せる。 自分は悪いと思っていないがために人に当たる。 過去を忘れ、過去を適当に良いように変えてしまったりもする。 確かな記憶や確かな証拠がなく過去のことに関する発言するのが当たり前になっており、間違いを真実と思い込む。 いろいろなことにおいてそう。間違いを真実と思い込む。 ある意味怖い。「頭が悪いことは罪」とも言える。 よくわかっていないのにどうのこうの言うのは失礼なことになり兼ねない。 よくわかっていないのだから、間違いだらけかもしれないわけだ。 せめてそれで決めつけて堂々とどうこう言うのはよしてほしい。 知人は知識が薄く視野が狭い人ばかりで、いろいろそれができることを知らなくてそれは違うと思い、 逆に自分の知識が薄い、薄いから誤解していると思い込む。 自身の思うことを曲げず、惜し通す。 話し合わないからには何でもその人の思いのまま。 本当、人は嫌な気質ばかり。  - 自分、仰天まとめ - ・知人全般から言葉も文字も場所もわからない記憶もない動けない何も知らない  何もできない「今産まれた人間」のように思われている。(即ち最重度知的障害者だと思われている) ・産まれてから毎日見ている人達にも、↑そんなふうに思われており、  幼児のころから知っていることを未だに知らないものと思われ続けている。  幼児のころからできることを未だにできないものと思われ続けている。 ・↑そうではないこと(その逆だということ)がバレないようにやり過ごせている。 ・誰も自分を知らない。毎日見てきた人も知らない。 ・毎日見ている人よりも、見ず知らずの人の方が断然理解がある。 ・永遠と知っていることを教えようとされ続ける。できることをできるようにしようとされ続ける。できることの訓練をし続ける。  (そうしようとしてくる人の方が圧倒的にできないわからない) ・大きく誤解され、全く無意味なことをされ続ける。しかも永遠とそうされるがまま。取り返しのつかないようなことでもされるがまま。 ・逆のことを思われ、逆のことをされ続ける。相手からすると、こちらが逆のことをし続けている。 ・この世に理解者0。誰1人として誰にも理解されていない。 ・人に付かれ、自分の意思で動かず、人に操られ続ける人間。(例えるとゲームの操作キャラ) ・普通に人間と思われない。 ・学校で普通に授業を受けたことがない。学校でノートを開いたことがなければペンを持って字を書いたこともなかった。 ・学校で人と話をしたことが1度もなかった。 ・3年半、学校で1分以上座っていたことが1度もなかった。 ・勉強を「人から教わる」ことはほぼ一切していない。


                 


   当ページ誕生までの経緯   
ある時、「ネットでこのことを暴露」すれば現状打破へと繋がる道が開けるのではないか?とふとそう思った。 2009年頃のこと。 ネットがあれば何でもできる。現状打破にも近づける。 このことを言えば有名にもなれるかもしれない。一石二鳥。 それで、共通点のある人が集っている掲示板で暴露しようかと思った。 だがもっといい方法を思いついた。 それは「自サイトで暴露する」という方法。 自サイトにはリピーターがいるので、多くの返答を得られるかもしれない。 重度化していき、このような人物になっていく過程を少しずつ書いていけば、 リピーターの人達を楽しませられるし、歴史に名を刻めるかもしれない。 なのでそうすることに。 それで自サイトでこのことを暴露する(現状打破への道を開く)ためのコンテンツを用意した。 そこに書いていく。 最後まで書き終えた暁には、サイトの掲示板でこのことについての語り合いが始まり、色々進展…。 外出や通話などへの挑戦を皆に後押ししてもらえ、楽に色々やれるかもしれない。 一言でも何か言ってもらえると全然違う。 「勇気しだいでできること」なら応援の言葉しだいで確実に何でもできる。 言われればいけそうな気がしてくる・自らの意思で行動している感覚を多少なくせる→いける。 常時公開し続けることになるわけだ。 そのうち力になってくれる人も現れるかもしれない…。 サイトも注目され、有名に!? さあどうなるか?楽しみでしかたなかった。 … この通りにやれていたら、どうなっていたことか? 掲示板で話しができない状況になってしまったこと、 そして「言わないべきだ」と言われたことで、この通りにやらない道を行くことになってしまった。。 果たしてこれで良かったのか? 自分自身のこのネタは、自分を良い流れへと導いてくれる最高のネタ。 ではなく、逆に最悪な流れへと導く恐ろしいネタ。だったのか? 止めてきた人にはそのように言われた。 ある1人の人がそう言っただけだ。 どうなのか? 自分は最高のネタの方だと思っていた。 だからサイトで暴露しようとしていた。 外出や買い物、通話などへの挑戦は“最低”でも2012年頃までには実行しているはずだったので、 それまでに実行済みでやれていたものと見なします。(文句ありますか?) ちなみに外出、買い物への挑戦は2003,4年頃の時点ですでに考えていた。 いつの時間にどこの道を通ってどこの店へ行き…というようにプランを立てていた。 今は勇気がなくてあれだが、何となく17歳辺りになったら、 完全に大人の外見になって誰だかわからなくなり、行ける(このプランを実行できる)だろうと思った。 (外見が変われば行けそう) 大人の人なら、外を歩いていても子供よりか目につかないだろうとも思う。 (子供は目につくというか、目をつけられらる〈特に夜は〉) だが17になっても18になってもだめだった。 自分だと気づかれる。。 いざその年齢になってみると思っていた感じとは違う。 “大人”とは想像していたような“別次元の領域”ではなかった。 だがしだいにもう待っても無駄。行くしかないので、本気になれる。だから行けるだろう。 そう思えるようになってきたわけだ。 このネタも最低でも2012年辺りまでには暴露しているはずだった。なのでそれまでに暴露していたものと見なし…以下省略。 1名にだけ暴露したが、遅くなってしまったがばっかりに、年齢を理由に良くないことを言われてしまった。 2012年以前だったとしたら、言われることが違ったかもしれないと思うと胸が痛む。 年齢のことは1番触れてほしくなかったこと。 今だったら、こうなるまでの経緯をああも長々と書き続けるようなことはしない。 迅速にやることが大切。 記憶を挙げていく部分は全省略する。 そもそもそうやっていれば、2009年の時点で暴露できていたことだろう。 悔やまれる。 いやでも当時は今と比較すると言動が良くなかったので、その時点でそうしていたとしたらどうなっていたか? 想像すると少し怖くもある。 ここは密かに作ったページ。 どう捉えられるか?どう思われるか?どういう意味だと思われるか?どう考えられるか?未知数なので、 どんな文面であっても馬鹿ですか?みたく思われそうで怖い。 今や否定されることしか想像できない。1つでも余計なことを書いてしまっていたとしたら、 何か1つでも気に障る発言があったとしたら、全部がだめということにされる恐れあり。


                 


   嘘ではない証拠   
この話が真実であることを示す、証拠の数々↓(クリックで拡大) 手付かずのドリル 6年分↓ 学校でずっと何もしなかった証拠。 手付かずなのでいまだに真新しい感じ。 ドリルは重要性が低い。 手付かずのテスト用紙たち↓ これも。 もう「永久に」誰も見ないと思うので普通に手をつけてしまっても問題ない…。 これだけではなく大量にあったが、引っ越し時にそれ以前のものが全て捨てられてしまった。 オール最低評価の通知表①↓ 小6の時のもの。こんなのは見たことがないでしょう。 何もしないとこうなる。「評価不能」とはならず、一応評価がされている。 (一部モザイクしています) 歴代担任の中ではこのころの担任が密かに自分を最も理解していたのだということに気付いた。 都合よく「このことが真実であることを示す証拠になること」も書いている。。 オール最低評価の通知表②↓ 中1の時のもの。 これも何もしなかった証拠。 これで叱られたり貶されたりしたようなことが一切ないという。神のような存在。 ちなみにこれを見てショックだとか(貴方の思っているような意味では)思わない。 一切思いません。 ↑↑の計漢ドやテストを見てわかる通り、やってこの結果だったというわけではないですから。 学校にそもそも行っていない人と同じ感覚。 これは自分の成績ではない。「自分の成績」とは言えない。 無能を演じた自分ではない恥の自分のもの。自分のではない。 だから見せられる。 ↑そんなこと想像もつかなくて、これを見た人は変なことを思う。 こちらからするとそう思われることの方が想定外。 皆「社会上での結果が全て」と認識している。 自分にはそれがないために、自分の何を見ることもなく「無駄に生きてきた無の人間」と認識される。 逆に社会での、公認の、結果を出したことがある、学歴のある職歴のあるとされる人はそう言うだけで、 その人の何を見ることもなく素質からして有能で何もかもできると思い込まれる。 言ってしまうとそういうの本当、嫌い。 右と左の字は同一人物が書いたもの↓ どちらが障害者の自分が書いたもので、 どちらが健常者の自分が書いたものかというと…言う間でもない。 (左は高校以後の〈障害者認定され〉色々強制的にされるようになってからのもの。学校のものでもない) 右と左はともに同一人物が書いたもの↓ 知人が自分の本来を知ったら仰天する訳がよくわかるでしょう。


                 


   あれこれ思うこと   
書き足すことが永遠と湧き出続けることに気付いた。 一月だけでも膨大な量のテキストが生まれ続ける。 即ちこのページの文章は永遠に長くなり続け、そのうち膨大になりすぎて誰も読みきれなくなってしまう。 (いや、すでに〈もうとっくに〉そうなっている) そんなで、何もかもどこかしらに書き足していく方針はやめることにした。 書き足す場所を選ぶのも、時間を食いすぎて無理。 新しいテキストが生まれるペースに書き足すペースが全く追いつけず、とにかく未公開のテキストが増えていくだけになってしまう。 文字の色を変えているとはいえよ、見る側も長すぎて新しいテキストを見つけにくい。 そんなでこのコーナーを設け、とりあえずこれからは主にここに書いていくことにした。 ここは読み飛ばしてもいい。 嘘を言っているから、話を聞いても実際のことはわからないだと思われていたりするのか? 何を言っても嘘だ自分を勘違いしてるだの思われて何も理解されない。 そんなである意味、何も言わない方がましだとわかった。 あまりにも酷い。 勘違いしているその人の思っているようにされ、派手に無駄し続けることはどう足掻いても変わらない。 見てもいない何がなんだかわかってもいないというのに、「悪いことをしてしまう馬鹿」ということにし、そう見て言動してくる。 その人がそういうことになり兼ねないが、かってに確信しており、そうだと気づきもしない。 家族らは「自分自身の思っている善」と違うものは悪とみて、治療すればその善に近づくものと思っている。 その善は単純に間違えているわけ。 歩いて生活する健康な人を、治療で歩かせなくする。そうできたら治癒だみたく思っていることと同じ。 「思っていることの空振り様」が酷すぎる。 そうなり兼ねない考えで、本当にそれ。 家族に統治されている限り何もできない。 それだと家族が自分にさせたいように自分がしないといけない。 自分で動くこと好きにすることは悪。 何もかも誰よりも良くできるというのに、自分ですることは封じられ人にやられる。 これは本当、人生が罰ゲーム。 人生を動かされる続ける規模の罰ゲーム。 この動画⇐を見てほしい。自分のことが本当だとわかるはず。 医師達は演技を見破ることができない、簡単に騙せることを検証で示している。 この社会の人々は詐病に気づかない。 少し怪しまれても、少し程度。 やっぱり根本的には障害者としてみている。 障害者の証を持っていて障害者の居場所にいたら、もう疑えない。 何百人と出会ったが詐病(演技)だとちゃんとわかった人は1人もいない。 そういうもの。 付き合えば付き合うほど(演技を本物だと認識して)誤解し障害者だと強く確信していく。 詐称してでも認定されれば、なんでも障害にこじつけてくるから、バレない。 かってに想像の中で自覚なしに実在しない障害者の人物像を作り上げられる。 証さえあれば、その証は皆何が何でも絶対だと認識する。 この社会の人間はそう。 まさかなことに、カミングアウトしても誰も信じず、わからないくらい。驚き。 そう思っていたら、そういうことになるようにこじつけて見てくる。 だからどうあろうが信じていることは信じ続ける。 間違えていても正しいことはいつまでもわからない。 それが人。 何年何十年見ていようと、演技だと見破ることができない知人ら…どうかしてるように見える。 同じ人を自分が見たら「こいつは本物の障害者じゃない」とすぐにわかる。 誰もわからないのはおそらく、同じような人が誰もいないからだろう。 同じ経験がなくほかの例を見たことがないもののことは何もわからない。 ちなみに自分が認定される時なんかは医師は自分のことをほとんど見てもいなかった。 9割以上家族の言っていること(大間違い)を真に受けて判断しただけ。 人の障害者に対する扱いは今はそんなに悪くない。 1対1になると愚行に出る人、1対1だった時のことを嘘で美化するような人は稀にいるが、稀程度。 家族の保護下から脱出できる良きタイミングに恵まれなかった場合、家族の手によって本当の意味でも人生終わってしまう。 だからあせってこのページを作った。 それに気づいてから長年遊びや遊びに近いことはしないようにしている。 人類の宝にも関わらず、惜しげなくあえて無意味に時間を奪われ人生裂かれる。 家族らは、自分が本来を見せたら「お前誰?」状態でしかなくなる。 誰なんだこの超人?誰から産まれどこから来た?(・・・!!!) ↑ほぼ確実にこれ。 1人残らず誰しも、自分という自分をその人の知る自分と一緒くたにしてみてくるだけ。 「家族の保護下から外れられればいい」それだけ。 病気でも障害でも何でもないから、家族が騙されているだけだから、本当にそれだけ。 なのに、できるできない治る治らないだの病気障害だからどうだでどうこう思って考えてどうこうしてきてだから酷くて馬鹿らしいだけ。 そういうことを言っている。 知人らの自分に対して思っていることは根から全部誤解だから、全部白紙にしていい。 本当にそれだけの話。 どうこうしてくることで、一方的に人の時間と体も奪い、罪深いとも思える。 今や(学歴無=)超絶使えない馬鹿な人材だと思われているので、いくら時間を奪おうが惜しいとも何とも思われない。 健常者に見えないよう、障害者に見せかけることを頑張っているというのに、治るように努力だとかはめちゃくちゃ。 見事に超人と思われずにやり過ごせている。 それを自分が喜ばしいことを捨ててでもして、力を抑え続けてきたから。 家族の思っていることでいったら、超人ということになってしまうのは確か。 そんなわけないから信じられない。信じられないことは受け入れず無視。 これは酷いこと。 そんなわけないと思う、ならなぜこちらはそう思っているのか考えない? 自分の勘違いだとしたら、そんなふうに勘違いをする意味は何だと思う?何も考えられないでしょう? 嘘を言う理由もないでしょう? 本人には訳、理由、話もたいして何もないものと思って(即ち馬鹿だと思って)、押し通すことが良いと思い続ける。 操る人の思っていることが第一とその人が思い込んでいる。 そうして何も良いことない。 現にない。その結果が証拠。 家族らは、何十年好きに操り続けても、自分を治せない。 それはそもそも「演技」で治る治らないの話でないから。 永遠とそれが理解できず、操ろうとして苦しみ無駄をする。 操られることがなぜ嫌なのか考えもせず、言いなりにさせようとしてくる。 まず「勘違いしているのにどうこうしても意味がない。 意味がないと思うのは意味がないから。あまりにも当然。 自分のことを、自分より圧倒的にできない人に代わりにやられる人生。 最強の罰ゲームでしかない。 家族らの言う自分のことは、家族ら自身が「そう思っている」ということで、本当にそういうわけではない。 しかし誰もそんな解釈は、するはずもない。 …この社会ではそういうもの。 家族は、苦、無駄、デメリット、惜しさを生ませる存在意外の何でもない。 できないように見せかける理由がない(家族が絡んでいない)ならば、できない(と見せかける)わけがない。 だから、できるできないの話ではない。 演技で低レベルに見せかけてやって、それが価値的で楽しくて有意義だと思う? 恥ずかしい苦しい相手に悪い馬鹿でしかないだけ、それ以外の何でもない。 特にの特に嫌なのは「時間をとられること」「身体に害を与えてくること」。 保護者は何を言おうが、見事に何の躊躇もなく、いくらでもそうしようとしてこようとする気質。 「自分のために金を使われること」これも含めていいかもしれない。何のメリットもない。 「馬鹿だと思っている人のこと」は何もかも、「馬鹿な理由」にこじつけて馬鹿だと信じてやまない。 「悪いと思っている人のこと」は何もかも、「悪い理由」にこじつけて悪いと信じてやまない。 何もかも勘違いと思っていい。 と言ってもそう思えるわけがないから厳しい。 家族らは本気で↑この成績水準の人間と思い込んでいる。 構ってこられることはこちらからしてみれば、邪魔なことをされるだけ苦しまされるだけ。 それ以外の何でもない。 何せなにもしてこなければかってにするわけ。 自分で自分のことを間違えるわけはない。本当にそう。 構ってくる操ってくる世話してくる食わせてくる保護してくる金投資してくることは苦しみでしかない。 こう言うわけ。そういうこと。 操る人は肝心な操るその人のことを考えていない? 肝心なこちらのことを考えていない。 保護して来る人らは、馬鹿の見本として良くない人間の見本として参考になるそれ以外の何者でもない。 そういう存在。 凡人に伝わる良い言葉があった。「仮病」。 ただの仮病でしかない。 にも関わらず、本当に病気(障害)だと思われた挙句に無許可でかってに社会に病気認定させられ、 社会で病気扱いをひたすら受けさせられた。 そんな、たいそれたことをされてしまったら、この仮病はやめようにない。 それをわからないから、どうしようもないことになってしまった。 そういう意味でとんでもないことになってしまったわけ。 仮病を詐病にされた。 これがとんでもないことだということを誰もわかっていない。 誰もわかっていないから、「とんでもない重圧」を自分1人で抱え続けてきた。 訓練も治療も何もない。意味がわからないと言っているのはそういうこと。 まずこの事実を暴いてしまうことがとんでもないこと。 …最初からこの言葉を多用していれば良かった。 詐病の方が適切だが、その言葉は認知度が高くないので、主に仮病の方を使用することにする。 ピッタリ当てはまるわけではないが、1番自分に近い病気を見つけた。「作為症(虚偽性障害)」。 それにもう1つ、「ギフテッド」。 ギフテッドが原因の作為症と言えるかもしれない。 少なくともイメージ的にはそれ。 家族らも当初のことだが、若干人を人に病気と思い込ませるタイプの作為症気質があった。 「本人に無許可で本人を認定させる」平気でこんなことをしていい気でいれるのは信じられない。 もし本人がだめだとしてもその理由など無視で「平気」。 自分自身の思っていること以外考えらずそれが絶対だと思っているから。 信じられない。 このページも作りたての未完成の状態のころに注目されて、完成度が高まるにつれて注目度が落ちていった。 過去に見た人は、過去に見た内容を中心にインプットしているから、だめ。 どうしたらわかってもらえるのかと考え、わかってもらえそうな言葉を並べてきた。 初期なんかは、誤解されにされる酷い内容だった。 人のことだから言わないようにしているが、何年見ても仮病だと気付かないだとか、イカれているのでは? 仮病を病気と勘違いして認定してその扱い。 本当にそれ。 酷いだとか馬鹿だとか越えて笑えない。 見れば見るほど理解がなくなる。 即ち自分の理解度は、見ず知らずの人間が最大。 ほかの人達は人間としてしょぼい(わかりやすく言うと馬鹿)だから治っている。 というか、自身の良いように自身を表わにするようになれている。 自分はそういうしょぼい人達(自分以外全員と言っていい)とは大きく違う。 お前はどうだからこうだ←どうだからも何もどうもわかっていない。 何せ見ても話してもいない。 断言して言ってくる時点でその人はだめ。 世の人間は確実にそれ。 どうしても、自分自身の思っていることを優先して見られてしまう。 「そう言ってるということはできる」的な見方はされない。 「できないのにどうしてそう言ってるおかしい」的な見方にされる。 自分で自分のことに関して間違えておかしいことを言うと思いますか? 「言ってることが正解になる道筋、答えがある」ではなくて、どうしても「不正解になる道筋、答えがある」と見てくる。あまりに酷い。 本人ではない人が思っていることが、本人の正しいこと信じてやまない。 頭がおかしいと思われているとしか思えない。 できることを自分で知ってしまうことも怖かった。 できないと思っているから、できないことにしている。 できると思っていることは、できることになる。 知人らが思っている自分とやらはその知人らが作り出している幻だから。 知人らは自分ができているところを見てもいないし、できないところを見てもいない。 それに気づいてもいない。 頑張るだとかそういう話ではない。 何せ家族らが世話をしてこなくなれば済むそれだけの話。 家族が死んだら人が変わってできるそう言ってる?←そんなことを誰が言ってるというのだ。どこに書いてあると言うのか? 勘違いか、適当飛ばし読みか、自分のしっくりくる言葉しか見えないか、言葉を改変してのかってな解釈か。 頭がおかしくないですか? 良し悪しを自分で決められる立場だと、自分の思っていることすることだけを正しいとし、人を皆悪いことにしてしまえる。 「自分は良い人」で、人を皆、馬鹿だということにしてしまえる。 そうしている人は、そうしていることに気付いてもいない。 ただ自分は良い人、人は悪馬鹿だと認識している。 知人らは間違えていることを何もかも信じ、全く違うことを思っているだけの不愉快な人間達でしかない。 それ以外の何者でもない。 何か言っても、聞いた人は自分自身の思うことに基づいて意味を自己流に捉えられる。 「自分自身の思うこと」の中には「誤解だろう」「嘘だろう」といった思いを交えられる。 それでほとんど全く意味が通じない。 知人が自分に対して思っていることは「予想」でしかなく、当てっていることなどほとんどない。 そのことに気付きもしていない。 当たっているか否かの前に、それが予想だと気づいてすらいない。 家族らにどうだこうだと思われたら、その思われたことに基づいた言動をしてこられる。 これは恐ろしいこと。 何せ「思われること」はほぼ何もかも間違いだから、間違えたことをしてこられるわけだ。 即ち家族らに「思われること」に厳重注意しなければならない。 本当に馬鹿らしい。 少しのことでもその「思っていること」の悪い意味での変化を誘ってしまう。 恐ろしい。 家族らは見ず知らずの人間(自分)を頭がおかしいやつと思い込んでいる。 話し合うことで理解が進む。 指摘のし合い。 それで少しずつわかり、結果的にある程度わかる。 1つの言葉聞いただけでは意味を取り違えたりされ誤解ばかり。 逆にだめ。 家族が自分はどうだこうだ言っても、どうしようもない。 何せどうもこうも何もわかっていないわけ。 それ自体もわかっていない。 何も知らないのに、本気で知ったつもりになり思っていることに基づいてかってに社会のあれこれに登録させたりしてきた。 めちゃくちゃな間違い。 知らず知らず無知による犯罪を犯している。 それ相応に見せかけざるをえなくて悲惨。 知人らが自分に対して思っていることは全て予想でしかない。 即ち全て間違っている可能性もある。 自分を見たこともないわけ。 だがそれに気づきもしない。 自分に対しての無自覚ゴリ押し希望的観測。 あまりにも酷い。。 何も言ってこないならそうできる…わけがない。 その人の想像の中でかってにそういうことにできるというだけ。 人の心を無視して押し通す行為。 動かす人に上手く動かしてもらうように認識せさ、動かしてもらわないといけないだとか、馬鹿らしい。 人にどう思わせるか?そういうことをしないといけないだとか、馬鹿らしいこと極まりない。 動かそうとしているその人が、それが良いことだと思っていることによりかってに決めているルールとみて良い。 そのようなルールいい加減撤廃になってほしい。 自分の社会での今の証、経歴だとか、家族がかってに作っただけ。 自分を動かしてかってにそうしただけ。 自分は取得したつもりも行ったつもりも何もない。 自分のものではない。 自分のものにならないように心がけていた。それでもかってにされて防げなった。 扱いを受けているのも何も自分ではない。 自分の証でもない、自分の経歴でもない。 自分のものではないと見るもの。 言うことを信じない人、ではなぜそう言ってると思っている? こちらが言ってる言葉は何だと思っている? 言っても聞かない、だから言う意味がない。 人はいろいろ思い込み、「信じている範囲」のことしかしない。 その範囲外のことを馬鹿にする。 わからないから、馬鹿にするようなことではなくてもそういうことだと思い込み馬鹿にする。 「人」がここまでわからずやだとは思わなかった。。 悲しい事実。 自分に嫌なことをしても悪いと思わない。 だから報いを受けてもなぜだか理解できない。 勘違いで訓練。ひたすら勘違いで何もない。 演技の訓練をすることなど馬鹿らしいだけ。 だが誰も受け入れないために、馬鹿らしいことを理解する人もいない。 誰しも障害者に当てはめて、本気で障害者だと思っている。 故意、演技だの正しい認識を本気で持つ人は数百人中1人もいない。 そうなる、そういう社会。 ある意味どうにでも嘘を信じさせられる。 ひたすら嘘、間違いと見なされ言うことを無視され、的外れ、無意味、苦しみだと言うことを変わらずにし続けてくる。 言葉が通じないようなもの。何も言う意味がない。 本当の意味で誰にも理解されない悲惨な人間。 理解されないから、そう言ってもその言葉も理解されない。 残念ながらどう考えてもこちらの言うことこそが的確。 しかしながら、聞く人はひたすら信じない、受け入れない、違うなどと思う。 「そういう意味で」話しても「言葉が通じない」。 「ただの演技」と知ったらどんな反応を示すのか? 誰も信じず言ったところで知ったりはしない。 そうだということが凄い。 こちらとしては信じない(即ち言葉が通じない)ことが驚き。 あえて演技をしてる姿を、これだけ多くの人間が本物だと信じて疑わずにいるわけ。 見ている時間が多い人ほどそう信じて疑わないわけ。 何もしてこなければかってにするわけ、大人なわけ。 知人らがしてくる行動はただの凄まじい迷惑、苦しみでしかない。 知人らはそんなこちらの立場は考えたこともないのだろう。 知人らに一切何もしていない自分に知人は苦しめられていると思っている。 知人らは実は誰にとっても苦しみでしかない行動をひたすらし続けているわけだ。 馬鹿らしいとしか言いようがない。 人は「持論」、「思っていること」に相手を当てはめて見てくる。 そのように見ることしかできない。 何せ「思っていること」の外の領域はその人個人の頭の引き出しにないので理解できない。 しかしながらその領域も存在しているわけだ。 それぞれその「思っていること」の領域は別。 被る領域もあるが、被らない領域も「必ず」ある。 そんなで、人に人のことはわからない。 わからないから、人を馬鹿だと勘違いしたりする。 知人の言う「できない」を無理やりその「できない」に見立てたとしても、ただのできないではない。 それとは全く違うと言ってもいい。 それをできないと言うのか?という感じなのに、知人は何もわからず言っている。 人が認めていないことをその人に無理やりさせて平気だという時点で、家族の言動は信じられない。 「「それでその人にどう思われるかわからない」」わけ。 恐ろしい。 人というか、自分。 自分を人と認識していない。 認識しているつもりでいるが、していない。 何もしていない人に対してどうこうして、どうこう思って… 何もしていない人を嫌って憎んで… 何をしているのか? 何もしていない側からしてもただ迷惑なだけ。 知人に囚われていない時間に寝てすっと飛ばされてしまうのは本当惜しい。 すっ飛ばすなら、囚われている時間にしたい。 すっ飛ばされるべき無駄な時間はそこ。 しかし知人らは逆だと思っている。 人に何かするのにまず、その人をわかっていなければどうしようもない。 逆効果を出すリスクの方が大きい。 まずわかっていないかもしれないことを、わからないといけない。 障害者や病気だと思い込まれているから、意識して普通に見えないようにしているわけ。 そうしていない方が自然体。 そう思い込んでいない見知らぬ人に、障害者や病気だと言ったら その人にも意識して普通に見えないようにせざるを得なくなって逆に厳しい。 配慮してくれる良いではない。実際は本当、そういうのは意味のわからないこと。 誰も全くわからない。わかる人はいない。 否定を助言として捉えることがない人間は成長せず、ずっと自分自身の思うことを押し通す。 恐ろしくもある。 家族の持論に当てはまらないから、見せられない。 家族の持論通りなら、超人になる。 あれこれしてもらえているではなくて、それに付き合わされてしまっている。 誰も得しない苦しみしか生まないことに付き合わせられる馬鹿。 人を苦しめたところで、返ってくる良いことは何もない。 苦しめることなんてしていない?←そんなことは自分自身にわかることではない。 無自覚でしていることもよくある。 良いことがないのならば、良いことはしていないということ。 「人をどうさせてくれないと怒る」ようなことがある人は、本当に酷い。 家族らは自分と敵対する行動しかしてこない。 ただの正当な敵。 苦をもたらすためだけにいるような存在。 裏表がある、実は別人とは誰しもまず認識しない。 自分自身の目で見たものそれを自分として認識するのみ。 こんなだと、人の認識を容易くコントロールできる。 自分と同じ人いないので、同じ人を救うなどということはできない。 そもそもいないのだから。 悲惨。 自分の対しての行動は自分のためと思い込んでいるが、実際はその人自身の心のためというのが大きい。 自分に良いことなどしていない。 支配欲を愛と勘違いしたりするのは本当怖い。 高水準な人なら、そういうことはないのだが。 自分は「家族の心のため」に犠牲になって苦しめられている。 自分のためだと思い込んでいるが実際はそうで、それだけ。 家族らは自分の思うことが絶対だと思い、こちらの言うことがなぜそうなのか聞き入れようとしない。 話を聞いてもいないのにどうだこうだ決めつけて否定してくるようなことをするのは、あまりにも酷い。 自分の意思を通せたらどれだけいいか。 上の人間の思いのままにされたら、される側が味わうのはこの苦しみの数々。 思いのままにしてこようとする人には何もわからない。 意思を通すなんて酷いこととしか思わない。 何もわからない。 当人が苦しむことが、当人にとって良いことだと思う? 「されている」を「している」として見てきて、していると思い込む。 そう思い込む側も哀れ。 別人に乗り移られてその人が自分の体でしたことを、自分がしたと思い込んでいるのと同じ。 わかるわからない、できるできないだとかそういうことに問題がある人間ではない。 だが皆自分に対し、それしか眼中にない。 このような人間は「ほかにいない」ので、いくら発信しても共感する人はおらず、誰の救いにもならない。 なんと惨めなのか。 人を否定する時、もし違っていたら、どんな思いをするのか考えない? 話をしてもいない人を否定することがどういうことかわかっていない。 人は基本、皆「自分と同じ」としてみている。 「自分」が人の基本系で、健常者の典型とする。 で自分は普通で自分以外の人はおかしいと見る。 で人を貶す。 おかしい。 でそのおかしさ気づいていない。 家族らは自分自身が間違えて人が間違えていると思い込む。 どうしようもない。。 家族らは無意識に人を嫌がらせて喜ぶ。 無意識だから悪くないだとか言える? 操り人形を操ってどうしてるこうしてるどうしたこうしたと言う。 それを自覚無しで心のある人間にやっている形。 とんでもない。。 人は、事柄にはいろいろな可能性があることを視野に入れない。 解釈がいくつもあることを視野に入れない。 で信じることを信じ込む。 誤解する。 家族らは見事なまでに嫌なことをしてくる。 そういう意味でも見事な敵。 自分に障害者として生きろと言うなら、それはわざと障害者に見せかけて生きろという意味になる。 「何が問題」で障害者認定されている?と問われ時、「何もない」から答えようにない。 「障害者に見せかけて(即ち不正して)認定された」と言って良い? 良くないでしょう。 だからそれはできないと言っている。 知人らの言うこと、的を外していてそもそも答えようにない。話にならない。 「お前はこうだからこうだ」的な発言があっても、こうも何もそうでない。 発言何もかもそんな。 言う側はそんなだとはほんの少しも思っていない。 そもそも何もわかっていない。わかっていないのに自覚なしで馬鹿にしてくるわけだ。 この酷さも誰もわかっていない。 保護者が自分よりも長く生きてしまうと、それは究極のバッドエンド。 そうすると、自分のことをまともに知る人が誰1人いないまま終わってしまう。 知人らは全員、実在しない人間を自分だと思い込んだまま終わり。 皆自分に対する勘違いに何も気づかず終い。 間違えていることに気づかず、無自覚で良くないことをしてくる。 それで人に良いことをしてあげているつもりでいる。 これが家族の酷いところ。 悪いことをする人は基本、悪いことに気づいていない。 何せ悪いと思っていないからするわけ。 悪くないと思っていることが、誰かにとっては悪い。そういうことはありきたり。 自分は何も悪くない正しいみたく言い張る人こそ悪いとも認識できる。 そういう人、自分の行いを変えようとしない。 「絶対正しい」なんてない。そんなことを言う人は危険人物。 「知人と話さないこと」と、「知人以外の人と話しにくいこと」は今や「「一切」」関係ない。 後者もそうなのは↑で言った通り、普通でないことだらけで普通に生きていることを装い嘘を言わないといけないから。 知人とは、家族がいる限りそもそも話すつもりはない。 何も「悪い」はない。 即ち「治す」は的外れ。 知人らは何もわからない。 即ち自分でかってにさせることを否定し、自分をどうこうさせようとする時点で終わっていると言える。 保護しようとしている時点であれ。 動くことはできる。話すことはできない。←何を思ってそうなるのか? できるできないの話ではない。 動くことができる(そうしてもいい)場合なら、話すこともしていい。 一方はしてもいい、もう一方はだめな場面などない。 考えてみればわかる。 知人がいなければ「してはだめ」な場面などない。 どうしても、皆、知人がいなくてもいる時のようなことがあると信じてやまない。 いない場面は、いる場面とは「何も関係ない」。 皆どうしてもそれがわからない。 多重人格のように見るのが良い例えと言っているのはそういうこと。 誤解。 自分の良いと思うことが1番良いと思ってやまない 何も考えない考える脳がないと、永遠とそう思い続ける。 人間は厄介。 お前はこうだからどうの←話してもいない見ても会っていないのと同じ人に対し、こうも何もない。 何もわかっていないわけ。 ただおかしいだけの発言。 わざと。故意。実際ハンディキャップや問題は「何も」ない。 基本中の基本。 それをわかっていないのにどうこうしてこられても悲惨なだけ。 永遠と誤解しているままで、永遠と誤解に基づいてこられる。 恐れ入る。 この環境からは脱出するしかない。 自分がすることは何もわかっていないわかることはないそんな家族の元(家族の保護下)からの脱出。 その時、金があればそれだけで絶対安心なので(あればあるほどそう)、金を貯めることが重要。 知人らは「予想」でこうだろうと思っているだけなのに、それをわからず、真相がわからず、「無自覚」であえて人の想いを夢を潰そうとしてくる。 共同は地獄。 共同から逃れた世界こそが極楽。 逃れられない時は、共同者を悪魔と見なし、常に警戒し続けることが正しい。 悪魔はあらゆることにおいて、いつどんな攻撃を仕掛けてくるか(苦を植え付けてくるか)わからない。 人は人を何がなんだかわかっていないために、無自覚で人を苦しめ続ける。人は悪魔。 ともかく、知人らが自分に対して思っていることはなんでもひたすら「違う」。 そのことを視野に入れればそれだけでもある程度変わる。 「話すことができる」などと理解しただけではほぼ理解したことにはなっていない。 人はだいたいそれもわからない。 否定のしようがない、絶対だと思い込んでいると迷いがない。 遠慮もせずにどうこうしてこられる。 恐ろしい。 してくる側はそんなことも何もわからないから、その状況下が変わることがない。。 勝たない掟、歌わない掟、名前を言わない掟…いろいろな掟があったが、それらを打破した経験は何度もある。 話さない掟を打破したこともある。 たいしたことはなかった。なのでそういうことはわかる。 今のこのことに通じる掟に関してはもう、それらとは全く違う。 家族の手によってかってにいろいろ「掟を持ったままで生きさせる環境」をこれでもかというほどがっちり作られてしまったわけだ。 それは最悪なこと。 「打破する」ということが「凄まじくたいそれたこと」になってしまった。 どれだけ阻止したいと思っても、阻止することができなかった。 話してもいないのにその人に対し、確信持ってどうこう思うこと自体、おかしい。 愛着の塊にされてしまっている。 普通に何もできないような状況。 了承を得ていないこと納得していないことをさせ続けてくるわけだ。 それは本当、心ある人間の行為とは思えない。 「こいつにならいい」という考えを持っているからそれができるのだろうが、その考えがまた信じられない。 それではその人から恨まれるのが自然。全くそうは思わないことがまた信じられない。 家族は「人間ではない」と言える。 家族らが思っている自分は90%誤解でできている。即ち虚像。 知らず知らず自分をその人の思いのままの人間に仕立て上げているところを見ると、 人にそういう(信じることを本当だと思い込む)気質があることが一目瞭然。 人の体をかってに自身が好きなように、自身が思っていることの中で自身の心が満たされるようにさせようとしてくる。 どうしても皆、自分に関することもいろいろ単純で幼稚な解釈にしかしない。 かってに馬鹿なやつと思い込む。 ともかく知人ら家族らが自分に対して思っていることは、何もかも全く違う。 何もかもそれ以前に話にならない。 まさかそうだとは思わず自分に対して行動してくるから悲惨。 本当、家族は自分にしてきたことがどういうことかわかっていない。 とんでもないことをされ、心がぶち破れるほど苦しめ続けてきたというのに、単純にしか見ず良いことをしてきたつもりしかない。 唯一の敵だというのに、唯一の味方だと思い込んでいる。 そんなことも何もわからず罪の自覚がなければ何が罪かもわかっていない様。 もう償いきることなどできない水準。 酷いを通り越して恐ろしい。 本当、大罰を受けてほしい。大罰を。 自分の体で馬鹿され続け体に人生に害を被り続ける。 馬鹿としか言えない。 試して正解を探るだとかも本当馬鹿げている。 そうまでして人を操りたい? 自分は自分の絶対の正解、不正解を知っているわけ。 本当馬鹿げているだけ。 自分が何を言っても、馬鹿に決まってるから当てにならないと思われる。 自分を自分で間違えることがあると認識されるからそうなるものとみられるが、その考え、信じられないほどあれ。 絶対だと思うことは、あくまで「自分の思う絶対」だということをわかってほしい。 人が嫌がることは、苛め、虐待だとかいかにもそれらしいことだけではない。 自分では気づいていないことの中にもいろいろある。 知人がするべきことはなし。 自分を気にせず忘れ何もしてこない。 そうすることに越したことはない。 それができないなら脳を破壊するか何かして記憶を消す(自分の存在を忘れさせる)しかない。 自分のことを思えば思うほど、自分に対して何かしてくればしてくるほど良くない。良くないだけ。 人全般ではなく知人。 知人以外の人にできないと見せかける演技をする必要はない。 だから知人意外は含まれない。 いくら言えばわかるのか? 誰にも自分が見えていないことを、誰もわかっていない。 体を操作して「やっている」という形を作られる。 でそういうことをしている人として公表される。 一溜りもない。 自分はやっているつもりはない即ちやっていない。 公表された人間とは別物。 やるなら意思でやらないと何にもない。 意思に反することをやるのはやるとは違う。 無意味な苦行。 高校以降、「やらないのにやらせる」という馬鹿げたことをやらせてくるようになってしまったのはもう言葉では言い表せないほどに痛い。 「わざと」だというのに、障害者に認定されてその扱い受けるということをされてしまったから、やばい。 ただのやばいこと。 笑えない笑い話。 何もかも全てが「故意」。何も悪い箇所もない。 そうではないと思っていることがまず大間違い。 「できない」←ということはない。 それだけわかればいいこと。 家族の持論からしたら自分はまるっきり「そんなわけない」だらけの人間。 即ち超人でしかない。 絶対できるわけないだとか思っていることがその持論に反して数々できてしまうことは事実。 何でも誰よりもできる(=何でも凄まじく面白い)。 それなのに何もせずに過ごさずをえない。 この切なさ哀れみをわかる人はほかに誰もいないだろう。 自分自身の思うことに相違することは、何でも「知らないからだ」にこじつけ、その人はその人が馬鹿だという確信を高める。 家族からしてみると、自分の能力は「そんなわけない」的なことばかり。 ストッパーがかかるわけ。 そんなわけないことができるとなると、隠していないと怖い。 それが全ての始まり。この全て。 家族らは、自分が無能だと思い込んでいる(信じ込んでいる)ことが一目瞭然。 話さないと相手の意識にも何も変化がない。 誤解されてもずっとそのまま。相手の思うがまま。 できない重度障害者ということになっていたら、そういう人と同類ということにされていたら、 それ相応な姿に見えるようにしていないといけない感じになるのがわかりませんか? できないではなくて、できない素振りなのだから、やろうとしたらいきなりできてしまう。 「できるようになれる」だとか思っている人のそれとも全然違う。 いきなりできたらあまりにビビられてまずい。 このままでは、本当にこのままでいざるをえない。 そんなことは誰もわからない。 重度障害者ということになっていたら、普通にやってしまうわけにいかない。 普通に見えるようにしているわけにいけない。 そうなるでしょう? 特にに重度知的障害者に精通している人の場合、自分の全てをそれの特徴にこじつけてこられる。 普通のこういうわけない、それはわかるかけないできるわけないだとか思ってどうこうする。 でこちらはその通りに見せかけざるをえない。 自分がその照合を持っていて重度知的障害者の施設で重度知的障害者に精通している人のいる場にいさせられるだとか致命的。 重度障害者ということになると、保護者がいてその人に全てを感知し知られコントロールさせられないといけない。 「最悪」という言葉しか出ない。 その通り全てを感知し知られている上でコントロールしてくるならまだしも、 全く知られていないから(そもそもだからこそそうしようとしくる)、コントロールのされようが尚更酷い。 知らず知らずド派手に馬鹿にしたりしているのもそうだが、家族らは自分を同じ人間(同じことに対して同じように感じる感覚を持っている存在) だと思っていないからこんなことができるのだろう。 どんなにわざとやらなくてもどうしても、できないものだと思われ怒られることも何もない。 こんな人はいないので、誰もわからない。これはいろいろ酷い。 罰を受けるべき。 知人を見れば見るほど、自信が強まってしまう。 自分ほど高水準な人はいない。 ~ではない。違う。←これをどれだけ言わないといけないのか? 受け入れられることがなくても、受け入れられるまで言い続ける。 そんなわけない←そんなわけないのにわかる、できる。=超人 毎日見ていてるのに、幼児でも知っているようなことを知らないものと思われていたりする。 こちらが仰天。 昔は知らないだとか可能性考えもしないそんなこと眼中にもなかったはずなのに、 退化した目線で見られるようになっていてそれだから、また仰天。 誰でも当然できることをできると言われて、誰でも当然知っていることを知っていると言われてどうですか? あなたは嬉しいですか? できるできない知る知らないだとかそういうことを視野に入れられること自体が間違い。 大いに馬鹿にしている。 いろいろほかに例がないから、仰天される。 長くて細かくてあれこれ言って異質な文章だということはわかっている。 異質=馬鹿だとは思わない。だからそれを変えようとはしていない。


                 


   聞きたいこと   
 聞きたいこと:  ①自分に対してどう思ったか?  ②どうするのが良いと思ったか?他にアイディアはあるか?  ③「自分と同等かそれ以上」に衝撃的な同類の人はいると思うか?  ④貴方が家族だったらどうするか?   (自分の本来のことや想い〈このページに書いてあることなど〉を多少知っているという前提で)  ⑤どうして誰からも無視されるのか?言葉をもらえないのか?  ⑥今の世界でなるべく人と会わず(社会に出ず〈できれば口座なしで〉)生き続ける良い方法  etc. 答えるのはどれか1つでも構わない。 終いに原点回帰して各問いに一言で(=簡潔に)答える↓ こうなった理由→自分は能力が低くないのに(低いの逆)、家族が自分を軽視するから(それが真実、かってに別の理由付けしないでください) できない(素振りをしてきた)理由→思いのほかでき「すぎ」る知り「すぎ」るから、それを隠すため 常識 知っている 知人の前で本来の状態を見せること できない 他人の前で本来の状態を見せること できる。他人と話せなくない、即ち他人の前で動けなくなるようなことはない。 家族に要求していること なし(強いて言うと何もしてこないでほしい〈見捨ててほしい〉) 他人に要求していること あり(反応〈できれば「聞きたいこと」の返答〉) 自信 ある。こう見た感じ誰しも自信があることをおかしく思うようようですが、、あらゆることにおいて非常に自信にがある。 教育 通常通り受けている(ものと同じ) 体→「非常に」快適に動けるし疲れることのない身体 苦しみ(不幸)→家族らが自分に対してしてくる行動 嘘 言っていない 今するべき最も大事なこと 口座を持つこと 金を貯めること (ネットで毎日300円稼ぎたい) 知人がするべきこと なし。自分を気にせず忘れ何もしてこない。そうすることに越したことはない。 自分→障害者だと思われていることにより、健常者ながら"障害者を装う"ことを余儀なくされている人間。故意多重人格者。 何を言おうと↑が真実。これを信じず受け入れなかったらどうしようもない。 普通に受け入れれば理解していることになるのに、信じない受け入れないからだめ。こんなことがあるとは。 知人さえいなくなれば問題なしになる。 ある程度現金さえがあれば逃亡して現状打破できる。(ただし知人〈特に親〉がいる限りとんでもない騒ぎが起こってしまう) 家族・家族と面識のある知人がいなければ1人で生き続けられる。「「確実」」に。 無知により誤解してそう思い込んでいるではない、誤解しているのはそう言う人の方。 家族がいなくなり家族の操作下から解放され1人になれば「「確実」」に現状打破し幸福を手にすることができる。 確実です。神に誓ってもいい。 知人らの知らない方の自分は、昔からずっと成長し続けてきた。 これを否定し受け入れず別のシチュエーションを想定してどうこう言ったところで何も良いことはない。 言ってしまうと無意味でしかない。見苦しい。 ↑これらを受け入れて認識してください。それができないなら自分に対してどうこうしない。 自分の思っているあらゆることは「知らないからわかってないからそう思ってる」ではない。 無能だと思われているとそれ。 無能だと思われている限り、言葉が言葉の意味を成さない。 言葉が言葉の意味を成さないのでは無能だと思われて続けているまま。 どうにもならない。 知っているわかっている、それでもそう思う理由がある。 人はどうしてそう考えず、おかしく思ったり馬鹿にしたり貶したりするのか? ↓ が一押し。もし↓の連絡方法が全部引くとしたら、どういう連絡方法なら良いか教えてほしい。 引く理由も教えて欲しい。こだわりか何かか? それとも侮辱しているところを他人に見られるのが怖い?自分の嫌がってくれるだろうから避ける?


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