すでに言った通り、必ず現状打破できる方法があるわけですが、誰もそれを実行させられない。
そこで効果のあるかもしれない(と思っていた)ことの具体例(現状打破法)をまとめてみる。↓
やってみたことにより、「何かためになることに気づけた」ようなケースもあったので、絶対無意味とも言い切れない。
○=自分で実行可能 △=他人の協力が必要 ×=家族の協力が必要 ?=検討中
・以前の自分に戻ったらどうするかを具体的に考えてもらう ×
今の通所(させられている)施設に関してどうするか?どこでどう働くか?どういう流れでどう生活していくか?など。
常時本来の状態になったら、そうなった日以降、そういう場所は場違いなので行けません。(比較対象外の人達のいるところです)
以前の自分に戻っても誰も困惑することがないような流れを予め考えておく感じ。
でも場面に応じて違うのに、辻褄が合うようにするためには
あらゆる場面(全ての知人の前)で同時に本来の状態でいれるようにならないといけない。
「今の環境のままで常時本来の状態になれ」と言われてもそれは物凄くハードなこと。
(比較対象外…そう言ったってどうしても比較して見られる…
そういう障害者と比較して見て称賛したって全く嬉しくない。ただ呆れる感じ。
比較していること自体がおかしいですから。
普通なら称賛しないようなこと)
通所施設の詳細は言いません。
手帳のこともそうですが危険ですし、(個人として)屈辱的なこと(黒歴史すぎること)には触れたくない。
通所施設など全て行く気がなければ行こうとしたこともない。「1度も」ない。
行っているつもりもない。(それ以前の教育系(を名乗っている)の施設も同じ。)
通所しているつもりは一切ない。
行かされてしまい、行っていることにされてしまっている。
かってに登録され肉体を持っていかれ(連れていかれ)、形式上「行っている」という形が作られてしまっている。
通所施設など知らない。
にも関わらず皆自分は行く気があり、本来なら自分で行くものかと思っている。
笑えるようなことだが、空しくて笑えもしない。
こんなヤツはほかにいないだろう。
昔から当然の如く通っている「THE・障害者施設の人」ではない。
知人は誤解が進み、今やそうさせたかったと思っているが。
行く気でいることもいたことも一切ない。
通所しているつもりになったこともない。
通所している人間ということを認めてもいない。
しているとしたらそれは自分ではない。
操られ、させられていることを自分のしていることにするのは本当、失礼。
自分なら絶対にしないわけ。
一溜りもない。。
だが操る人、周りの人はそのことを、わかってもいない。
誰も何もわかっていない。
家族らにさせられていることをしているつもりは一切ない。
・自分と同じような人を見つける ○
ここまであれな人はほかに存在しないでしょう。(この世にただ1人。おそらく誰しもそう思う〈これは誰も否定しない〉)
障害者を装っている人はいるにしても、ここまで1日のほとんどの時間、(しかも小1から)派手に障害者の演技をし続ける人はまずいない。
このような人はいない。ほかに「いない」と言える。
だが絶対とは言いきれない。
“もしも”存在し、その人と交流することができたなら、互いに色々良いことがあるはず。
もしこのような人をほかに知っているならぜひ教えてほしい。(いえ、教えてください)
“ある程度”共通点のある似通った人ならいくらでもいる。
最悪そういう人でも良い。
同様な人に希望を与えることもしたい。(その想いから生まれたページがこれ)
このような人はほかにいない…
それどころか同様な思想を持っている人も存在しない。
そんなで自分の言うことに共感してくれる人というのがいない。
この世にいない。
全てを否定される。
ですから、心の支えが何もない。
いくら心がボロボロになろうとも、ひたすらそのままでいるしかない…
できすぎることで悩む、空気を読んで力を抑え、その力を隠す…そのような人はいない…
と思いきや、ギフテットの人は自分同様「自身の能力を隠す」(!)傾向がある模様。(動画聞き流しサーフしている中で知った)
普通気にならない些細なことが気になってしまうだとかそういうおかしなことは自分にはないが、
ギフテットの特徴には当てはまるものが多い。
身近な人がそのことをわかっていれば、全然違った(今でも違う)のだが。
傍からは全くそのような人だとは思われてない。
傍から思われることは決まって「頭が悪い。どこかが悪い」。
・意見をもらう △
このページを他人に見せ、意見をもらう。
すると何か気付くことがあったり、力になってくれる人が現れ道が開けるかもしれない。
ずっとそう思っていた。
この文章を公開する日にありつけてしまった今、道が見えなくなりつつある。
…誤解されて的外れなことを言われるばかり。
なかなかアイディアは得られない。
的外れなことをあえて的外れだと思わないようにするよう、意識しているがやはり的外れでしかない。
「同様の人」や、「専門医」に意見を聞いたらどうか?
全てここに書いたので面倒なことはせず、このページを見せれば良いだけになる。
でも後者は厳しい。
そういう社会的地位が遥かに上の人に当ページを“自ら”見せる勇気はない。
誰も意見を掲示板に書いてくれないので返信を兼ねてここにやたらと色々書くことにもしてしまい、このような有り様。
こんなに恥ずかしいページはなかなか見せられない。
でも現状打破の方法を1番わかるのはやはり“自分”。
↑↓これだけアイディアがあれば十分なのでこれ以上にそれを得ることに重要性はさほどない。
何かを「誰かに聞く」必要は「あまり」ない。(そう思う)
前者を実行したが、結果なかなか当ページへのリンクをクリックしてもらえない。
唯一〇i〇iからは人が入ってくるが、
そこは前々から自分を知っているス〇ー〇ーの人が入ってきてしまう可能性が高い。
これは、そういう人からしか意見をもらうことが(反応を見ることが)できないということを意味するのか?(そのようでした)
それ以外の人の反応を知ることを1つの目標に掲げています。(できれば同様の人がいいが、そうでなくても構わない)
もし何か危険なオーラを感じられたり、緊張感を感じられたり、
近寄りがたい印象を出していたりしたとしても、反応をもらえないと何もわからない。
まず何か一言でも良いので言葉をもらえるとありがたい。
簡単なようで難しい目標。
そう言ったらそこからではなく、検索でヒットしやすいある別の場所から入ってくるようになった。
そこから来た新参を装うのはやめてください。
(そうしないと見向きもしないのではないか?とかってに思い、そうするのでしょうか?)
そうされ、“もし”見抜けなかったら「前々から自分を知っている人以外の人から意見をもらう」という
その目標を達成したことにしています。
そのまま事実上達成していない状態で終わりにしてしまうかもしれません。
現状打破に支障をきたします。
その後、前者(同様な人等に意見を求めること)を15回前後はやりましたが、返答が返ってきたのは僅か2回。。
その2回も本当に一言だけで終わりだったり当ページは見ていなさげだったり…。
目標を達成した?とはいえ、まだ微妙。「どう思われるのか?」それをあまり確かめられていない。
反応がない場合、「嘘を言って人を弄ぶクズと思われ嫌がられたor変な危険人物とみられたor
どういうわけか知らないが怒りや憎しみや嫌気や不快感を持たれた」
(よって近寄らないようにしようとした)ものと(曖昧ながら)判断します。
(そうは見えないようだが)怖さを押し退け、勇気を振り絞った上で、全力で言葉で投じているのに
かってにそんなふうに思われてしまうというのは本当に悲しい。
相手の好感度下がります。
…本当にそうなら書き込みを消すなりしてそれなりの反応を示してほしい。
そうしてくれれば曖昧にならず、すんなり諦めがつく。
「お前の言葉が悪いんだ?」
どんな文か見てもいないのに堂々とそんなことが言うのは失礼でしょう。
自分は悪いやつとされているので、そういうことにされる…
でもまだ何かがいけないのか?いけないなら何がいけないのか?それで頭がいっぱいになる。
怒ってるとしたら、嫌ってるとしたら、それはどういうわけで、どんなふうに…?
数年かかり、ようやく目標達成。(この通り→質問)
しかし1人から反応を得るので精一杯。
「反応を得る」そんなに簡単そうなことがどうしてこんなにも難しいのか?苦労を強いるのか?
笑える。
特に驚いている様子もなく、わりと素っ気ない反応。
たいしたことはなかった。
大多数の人はこういった感じなのか?
こういった他者の反応は役立つが、結果、たいしたことなかった。
1人でいいので「同様な人の反応」も見てみたい。
ネット上で繰り返し言葉を投げかけてきたり、返信を続けてくれるような人はほぼいない。
そういう人が出てきたら奇跡。
奇跡のようなことと思っていい。
出てきましたが、信じられないようなレベルのこと。
もともとそうでしたし、今改めて思ってみてもそう。
そんなでネット上で「悪い人」とされる人につきまとわれるようなこともないものと思っていい。
それがもしあっても、自分は無意味だと断定できるまで話したら見切り排除を試みます。
実際、そういうことがあり何度かそこに行き着けています。
嫌な想いをし続ける、尚且つ無意味(メリットなし)、なのに拘ってそういう人と付き合っていこうとし続ける…
そんな訳のわからない意味深なことをする変人ではありません。
変な誤解しないでください。
嫌なことを嫌なのにやり続けるはずありません。
「自分だけ」は「本当に」誰しもから避けられる。
どうして無視されるのか?反応、返答、言葉をもらえないのか?
その理由が知りたい。
「自分で考えろ?」
どれだけ考えていると思ってる?
考えられることは↑の嘘を言って人を弄ぶクズと思われ以下省略。
こういうことは教えて(というか反応を示して)もらえないと認められない。断定しきれない。
正解がわからないと断定できず前に進めない。
不確かなのにかってに解釈して思想を固め言動をしていったら誤解だらけになり兼ねない。
それで良いとは思わない。
だから理由を教えてほしいと言っている。誤解しないでください。
誤解はだめだということが自分にはよくわかる。
・知人に予め本来の自分を知ってもらう ×
能力や知識のことなど。
そうすることで驚かれにくくなり、ある意味本来を見せやすくなる。
(自分の今の本来のことをよく知っている知人は誰一人いない)
だがそれはほぼ無理な話。
ここで散々言っているようなことを“家族ならいける例の手段”で予め伝えても家族は信じない。
信じないですから、本当に驚かれることは避けられない。
驚かれない環境を作ってもらうことはできない。
信じない(信じられない)ようなことが事実なわけですから相当驚く。
家族は自分が今話しても何とも思わず驚かないものと思っていますが、それを信じてくれない限り、そんな訳ない。
話せることをわかっているから話しても驚かない、動けることをわかっているから普通に動いても驚かないだとか、考えが甘い。。
知識や能力、人柄、その人に対する想いなどは明らかに全然わかっていないわけです。
話したらそういうことがわかってしまうでしょう。
全然障害者ではないこともわかってしまう。
間違いなく仰天します。
できるようになれる素質がある覚えらる素質があるではなくて、すでにできるし覚えてる。
だから驚かれる。そう言ってる。
改まって人に教ることをしないと、人は絶対何も身につかないなんていうことはない。
あと話したら全て解体させる。
家族と話さなくなったあとに家族が自分に対してしてきたことは、そのほとんどが自分の意志にそむくこと。
そうしてきたから、そうなるわけ。
そうさせずに話すとか、ない。
家族が思っている自分は消える。
皆こういうことも何もわかっておらず、今話すことがどういうことだかわかっていない。
話しにくい訳もわかっていない。
なんかそうしたい、なぜかそうしたい、拘ってそうしたいとかそういうことはない。
理解していないのに、間違ったことを固く信じ、それに基づいていろいろ決められたりされ、本当やりにくい感じ。
毎日見ているのにここまで理解していないというのは本当に信じられない。
「理解してもらう(自分を知ってもらう)」ということは重要。
何せそもそも理解してもらえないことによって現状打破を妨げられている。
それを妨げているものは知人。
なぜ妨げているのかというと自分を理解していないから。
理解してもらえていないから、誤解されるし腹立たしいことも言われ続けるし
軽視されるし驚かれるしダメージ追うし不幸…でもある。
だが理解させられない。
言葉では厳しい。
「自分を知ること」を重要視し、それを無意味だと思ったり、恐れたりしないようにしてもらえると良い…
自分は知人がいなくなれば何も問題ない人間になります。
知人がいることによってこういう人間になっています。
「知人がいるとできない」それだけ。
それを信じて理解してほしい。
自己流の予測をもとにああだこうだ言って無意味路線へ持っていかないでほしい。
このような人は自分しかいないですから、改善するためのマニュアルとか、この世にないと思ってもいい。
かってな解釈で何かの障害とし、それ相応にどうこう言われると無意味路線へ行く。
他人にわかることではない。
「これまでの自分が失われてしまう」ようなことがあったら、人生が終わる以上に屈辱かもしれない。
病気か老化か何かでそうなることもありえなくはない。
能力が落ちたり知識が失われたり本当に障害者になったり本当に世話人がいないと生きれなくなったりしてしまったら、
その後に本来を見せても「知人とは比にならないほどの能力があった」ことを信じてはもらえないだろう。
能力が落ちたら最後、どう足掻いても誰からも信じてもらえなくなり、凄まじい屈辱を味わうことになる。大いに悔やむ。
だから極力、体にダメージは与えたくない。
今のうちに何とかしたい。
せっかく身体的状態も最高潮なので、とにかく何かしておきたい。
何かしたい。しかし囚われの身のような感じで何もできない。
家族を始めとした自分を知る人は皆、自分のことを何も理解していないわけです。
自分がいなくなったら、残るのは知人の中にいる自分とは全く違う自分ではない自分。
自分の恥の自分。
自分がいなくなったら自分は本当にいなくなる。
誰の心にも自分はいない。哀れ。
皆、自分は生まれてから今に至るまで長い間常に呆然としていて、何もなかったものかと思っている。
他者には何も見えていないし、社会上での結果などは何もないとはいえよ、
毎日見ていれば呆然としているわけではないことなどある程度わかるような気がするが、本気でわかっていない。
家族の心には自分ではない自分しかいない。
自分はほぼいない。
…恐ろしい。
何も得ず何も生み出さず思考せず生きてきた人間ではない。
もともとは家族を始めとした周りの人に「軽視」されるから、本来を出せなくなった。
だが家族は絶対にそれをわからない。
今更言っても難だが、今でも「軽視」されていることで本来を出しにくい感じなのは確か。
家族は自分を理解していないものかと思い込んでいる、自分は誤解している、ではありません。
自分は何も表に出していないが、家族らは日々思いきり表に出している。
自分と違い、基本何でも表に出してモヤを発散している。だからわかる。
「言っていること」からして本当に理解がない。
理解がないことは明白。
理解させないといけないというのがまたもう嫌らしい。
大人なのに社会のルール上、保護者に理解させて、自分を動かして(操って)もらわないといけないだとかいう。。
人間やめたいと思える。
家族が本来を見て真実を知ってしまったら、自分に対していかに無駄なこと、馬鹿げたこと、
見るに耐えないようなこと、いけないことをしてきたか、させてきたかが、わかってしまう。
それもわかってしまう。
普通に本来は見せない方がいいかもしれない。見せれない。
何も言わないということは、「知っているかどうかわからない」ということ。
「知らない」ということにするのはおかしい。
どうしてそうするのか。
・どこか遠くで1人で暮らす ×
以前はあれだったが、それ相応の歳になったことで、これが可能になった。
人と接したりすることに「最大限に慣れる」と思うので、
地元に戻っても本来の状態のままでいれるかもしれない。(それでもその可能性は低い)
2度と戻らない、知人も来ないなら絶対的に現状打破可能。
(自分のことをちゃんと理解しているなら、それで現状打破できることが〈その原理が〉分かると思います。
「知人がいるからできない知人がいなければできる」それだけですから、それで現状打破できるわけ。
「2度と戻らない」というのは正しくない。
「2度と戻らない(知人と2度と会わない)「覚悟」を持って」というのが正しい。
もしもだが知人とも話せるか?という気持ちになってきたら話しに戻る)
だがそれは良くない。普通良いとは思わない。
なぜって?「家族と縁を切ってしまう」ことになるわけです。(それでいいと思いますか?)
普通なら自立するからといって、もう2度と会わないということはないです。
普通のそれとは違うので自分の場合「縁を切る」ということになる。
年をとって大事な親族が誰もいなくなったら別に良い。
「心配してくる人がいる」ということが大きな壁となる。(本当は心配無用な人です)
「現状打破(縁を切る)」と「家族との縁」。
選ぶとしたら、個人としては前者。(今の想いはそう)
演技のようなもので難しかったりするし恥ずかしいし、この先も現状のこんな状態ではやっていられない。
だが自分でそれを望んだからといってどうもできない。何にでも言えること。
(このページを普通に読んでいればそれがどうしてだかはわかるはず)
「縁を切る」ということに家族が賛同してくれないといけない。
だから難しい。
まず「縁を切りたい」という意思を示すのが難しい。(例の方法で示せないことはない)
示せたとしても、「1人で生活できる」とは到底思ってもらえない。
もしも思ってもらえてもそれに賛同はしないと思う。
皆絶対の持論を持っている、ナメられるで信用してもらうこともできない。
絶対の持論は持つなら「自分の中でしか通用していないかもしれない」ということ視野に入れてほしいもの。
言ってることは絶対だ、絶対できるという証拠となる事柄を作ったりすれば多少家族の信頼度を上げることができる。
(なぜか証拠にならず、だめな場合もあり)
「証拠となる事柄を作る」というのは実際自分自身にとってはあまりする必要のないことなので、なかなかする気にはなれない。
「ある日突然失踪して2度と帰らない」ということをやれば行けますが(もちろんかなり下準備が必要)、
もしメモを残していったとしても、とてつもない大騒ぎになってしまいます。無理です。
とにかく家族がネック。
これは場を変えれば治ります。
小学校のころなら転校することで治せたかもしれない。
ただ、今や長引いて家でも学校と同じに近い(同じではない)状態になってしまったわけです。
家(家族)も変えないといけない。
そういうことです。
そこまで重くなってしまった。
情報が家族を仲介することになる限り大きく変わることはない。
この絶対いける方法をすぐに実行に至らせることは難しい。でも現状打破が絶対に無理、不可能ということはありません。
絶対ではないがその他にもいける可能性のある方法があるわけです。
可能性があるのだから不可能とは言えません。(当然)
絶対いける方法も実行に至らせることは難しいですが「難しい」です。
ネックである家族をなんとかすれば不可能ではない。
「遠くではなくしかも一時的にだけ」で実行してもらえることはありえますが、その場合、
形跡が残ってしまい、やりにくい形でやらされてしまうかもしれない。そこが多少怖い。
そうならなければ、まずやれる。
とりあえずはお金の管理の流れ、食糧確保の流れだけでも確立させれば良い。
どこでどのようにどうするか?具体的に決める。
具体的に決める必要がある。そうすれば現実味を帯びてきて実行できる。
手助けを入れられると逆に厳しくなる。
知人に再度会うとなると、その会う時のことを常時視野に入れ、その時に備え続けているような形になる。
ホテルは従業員がいるのでハードルが高め。
ハードルが高すぎて「無理な領域」には踏み込めません。
どういうことなら良いか?どういうことはだめか?決まりがあり、
できるか?できないか?はやってみる間でもなく自分で分かるわけです。
どういう形をとられるか?そこがポイント。
妨害しているもの(天敵・厄介者)は家族ですから、家族の動向にかかっています。
「人並み以下なことはない」「知人がいなければ理論上動ける」わけですから、それだけです。
無理な領域に踏み込まないとだめだというなら違う。
この案は無理な領域に踏み込まずにいけるので絶対いける。
事実上問題なことは、皆が予想するであろう問題とは異なります。
問題視していることがないわけではないが、それはどれも皆からすると笑ってしまうような程度のことです。
皆はまず生きれるかどうかを気にし、こういったことはもう思い浮かびもしない。考えつかない。
信用せず自己流解釈で何かしようとした場合、無意味路線を走り続けるだけになります。
口座や色々な契約は家族の管理下にあるため軽々と手を出せない。
履歴が残るとだめ。
形式常識ルールが限りなく多い。誰が考えたのか現在の世の中で人として生きるのは関門だらけ。
大人になれば好きにして良いのかと思いきや、そうではなかった。
誰しもが自分自身が正しいと思っている(自分に否は打たない)ので、対立して上手くいかない。
(自分自身が正しいと…省略←誤解され、お前がそうだなどと散々言われますが、
これはこちらから相手に対していつも言いたいことです)
独立できない世の中だということがまたネック。
なんとかして密かに自分で口座を作ることができ、行けそうな場所にATMがあったとしても、
ネットがないとポイントサイトで稼ぐこともできない。
ホームレスとして生きるのも自分のこの症状からして初めは楽でない。
森で野生動物のように生きるなら楽々行動できるが、違う意味で過酷。
でも何かいい手があるはず。
誰かの力を借りなければならないのか?極力それはしたくないし、人はそう簡単に都合良く動いてくれない。
支え合えうような関係になるとまだいいのかもしれない。
無人のコンビニがあればいいと思い、調査したところ、海外にはすでに存在する。
無人スーパーは国内に1件?だができている。
食品自動販売機なら近場にある。
最初に暮らす場所はそれらの近くだと非常に気楽。
いずれはどの店からも店員がいなくなると言われている。
家族の元を離れれば突然本来に戻る、という感じではありません。
まず小学校入学時以降もほとんどの時間本来の状態でいたわけですし、今も本来の時がそれなりにあります。
知人が見ていない場面なら何ともなく行動できているわけです。
知人にずっと会わなければ、本来の状態もずっと続く。
そういうことです。
突然未知の領域へ行くような感じではありません。
×場所を変えればできる ○知人が見ていなければできる
場所(環境)を変えること自体には意味がない。
「今の自分は本当の自分ではない、本当の自分を取り戻せ」的なことを言われたりもしますが、それは誤解です。
今もいままでもそうですが、知人がいない場面になれば本当の自分になります。
取り戻すも何も、今の自分は本当の自分でもあります。
それで「知人のいない環境へ行くことで突然、人が変わって本当の自分になる?」的なことを思われたりもしますが、
それも意味がわからない発言です。
「知人がいない場面」と「知人がいる場面」は必ず毎日ありますから、毎日取り戻したり失ったりしています。
知人のいない環境へ行った場合、人が変わって本当の自分になるではなくて、「いつもの本当の自分がそのままでいる」。
それだけのことです。たいしたことではないです。
必ずしも遠く行かないといけないということはない。
「知人に気付かれない」ならそれで良い。
もしこれが絶対だめだとしたら、家族の状況が変わるか、気が変わるか、認められるまで待つ。
その間現状のままで多少でも現状打破に結び付くことを色々やる。知人の前で何かできるようにはならないが。
予想だと絶対だめというか、答えられず終いだろう。(実際だめ?なように見える)
「そうなり、そうする形が最も現実的」なのか?
何か、今の自分は自分で責任を持つことができないとされる。
おそらく障害者として障害者を援助する人達と結び付くことをしたから。
例えば家出をやって失踪し例の色々な施設をやめることになっても自分自身の責任とはならず、
家族の責任となり、家族が刑罰を受けることになる(と言う)。
大人になった意味がない。
30,40になればさすがにあきれられて…などと序盤に書いていましたが、今やそれはなかった。
手帳さえ手にすればどんなに呆れられようとどんなになろうと何があろうと
何をしようと、働かなくとも世話をして生かし続けてもらえるとされる。
何もせず楽したい人にはおすすめ。
国に守られ絶対的。障害者は神のよう。
「できない人」と認定させてしまえばもう何もしなくていいわけです。
叱られることも苦しむことも何もない。
世話人は国の命令により世話させられている感覚ですから抵抗できない。
抵抗したら刑罰を受けて人生台無しになるわけです。
奴隷と言ってもいい。何を言っても世話してもらえる。
社会で生きるのに苦悩している凡人の気持ちなど全く分からない、分からなくてもいい殿様。
だが、自分にとってはこの仕組みは非常に邪魔なもの。
この仕組みがあることによって色々妨げられている。
何も言わず何もしないようにしていれば、
何もできない言葉も分からないものと認定され、最重度の知的障害者ということになれる。
誰でも、いつからでもそうすればそうなれるでしょう。
自分が実証した。
そして学校も行かなくて良ければ仕事もしなくていい、
何もしなくても死ぬまで世話人に世話し続けてもらえるようになれるというww
手帳を作られた例のあの時にて自分は人間から動物にさせられた感じ。
動物ですから放っておくと危ない!見張っていないといけない!(他人はそう信じてやまない)
こいつは突然暴れだすかもしれない!路上で突然全裸になるかもしれない!噛みついてくるかもしれない!
物を落とすかもしれない!階段から落ちるかもしれない!窓から落ちるかもしれない!
刃物で人を切りつけるかもしれない!目を離したら車にひかれるかもしれない!
死ぬようなことをして死んでしまうかもしれない!(例え10年そんなことがなくても人によってはそう信じてやまない)
エサを与え続けなければいけない!逃がしてはいけない!粗末にしてはいけない!それが飼い主の役割。
しかし、動物なのに命の重みが人間と同じと定義付けられている。たまったもんじゃない。
役割を放棄したら逮捕!
「どこか遠くで1人で暮らす」↑という名称、良くないか?
具体的に言うと「家族が構ってこなければいい。放っておいてくれていればいい。」それだけ。
場所を変えること自体には何の意味もない。
自分に直接意味のあることはない。
外に出れなくない、外に出ることに意味はない。できないことない。
どうして全然違うことを思われてしまうのか?
人は厄介。
自分に足りていないものはない。
だから自分に直接意味があることはない。
「知人」がどうするか、どう動くか、どう思うか、自分をどう動かすか、どうしていこうとするかが、ポイント。
間違えないでください。
「知人がいると体が動かなくなり何もできなくなってしまう」ではなくて、「意思であえて何もしないようにしている」。
前者なら障害者。
障害ないということは後者。
誰も理解していなし、いろいろおかしなふうに思われていて本当悲しい。
家族の心の問題とも言える。
あまりに理解がないこと、事実に反してあまりに低く見ていること、あまりにおかしく見ていること、
それに基づいた思いから形作られた家族の自分に対する想い・心が自分を不幸にしている。
知人のいない時に、いる時の自分が現れるとか、そういうことはない。
それが現れて予期せずできないだとかそういうことはない。
それが急に現れてできなくなってトラブル発生だとかそういうことはない。
そういうものではない。
なぜも何も「そういうものではない」。
だから「ありえない」。
そういうことがあるかもしれないから1人は危険←あまりに酷い間違い。
「やる」か「やらない」かを意思で選別している。
皆はその「やらない」の方をできないだと思っている。そうではない。
だからやれるかやれないかはやってみなくてもわかる。
知人が思っていることとは全く違う。
敵は知人だけ。
「〈できるという気持ちは持っているけど〉体が動かなくてできない」でもない。(←馬鹿げてる)
できると思いたい気持ちはやまやまだからそう言ってるけど体が言うことを聞かなくてできないでもありません。(←馬鹿げてる)
それ↑はできないということ。
なぜできると言っていると思ってる?
・他人と会話をする △
基本的なこと。
知人でなければ話すことが可能。
上記の通り、一応色々やった。
熱心にやってはいない。
よくよく思ってみると他人と話したからといって知人と話せるようにはなるとは考えにくい。
でもかなり為になると思う。
できれば感覚はつかんでおきたい。
ちなみに他人も、ある程度交流すれば知人になるわけですが、知人になったらもうだめかというとそうではない。
「知人を介して知り合った人ではない」なら、いつまでも本来を見せることが可能。
家族と面識がなければいい。
・他人と偽って知人と話す ○
自分自身がその知人と話すことに慣れることができる。
さらに、あとから自分だったと伝えれば、相手にも自分と話す感覚を感じてもらえる。
(するとこちらとしても話しやすい感じになる)
かなり勇気がいるが無理はない。何度もやれない。
軽くこれを実行してみた。「自分で」できることは実行可能。
具体的に言うと昔の知人のブログにコメントした。
結果:返答がない。(たいていそうだろう)これでは何にもならない。
と思いきや、返答を得られた。しかし、その次の返答はない。
かつての恨み晴らしを兼ねてビビらせ要素を入れたのがだめだっか?
まあそれでも少し会話した感覚を得られた。以上。
自分だと打ち明けるのは厳しい。
実際の知人の場合は家族に連絡される危険性がある。
・知人に他人と偽って会話してもらう △
相手にも自分と話すことに慣れてもらえるので良い。
これができたら物凄いこと。本当に気づかなければ可能。
これはどうしてもだめな場合の会話手段でもある。
・他人に自分を装って知人に会ってもらう △
で自分を装ったその人が知人の前で話したりする。
これでその知人の反応を予め見ることができる。
他人に予行練習させ、自分と接することに予め慣れてももらえる。
すると自分本人?も気楽になり、平気だと思えてくる。
わりと、いいかもしれない。
大人になった姿を知らない昔の知人であればバレない確立が高い。
姿を見せずに電話で自分を装うというのもあり。
それなら今の知人でもいける。
何せ誰も声を聞いたことがない(声を知らない)わけだ。
自分の偽物に成り代わって本物になるようなこともできるようになり、
本当にいけるようになるようなこともあるかもしれない。
・失踪を装って実は家にいる ○
天井裏や天袋に隠れて、生き続ける人がいる。→詳細
生きれる。
これを自分の家でやる分には犯罪にならない。
家の誰も来ない場所に住み着くなら、入念に考えて計画を練る必要もないが…結局家を出るのと同じ。
大捜索され、大パニックが起こる。
親がいなくなったら、まずこれをやるかもしれない。
・自信をなくす △
自信があるからこそ、こうなったわけで、なかったらこうなっていない。
自信をつけるのではなくて、なくす。
リアル知人←ならば「変なことを言ってる」と思うでしょうが、これは本当に有効です。
ネットで自分の作ったものなどを見せ、全てをひたすら貶され酷評され続けたことで
知人に見せるのも(たとえ本気が作ったものでも)わりと平気だと思えるようになった。
凄くて驚かれるのではなく、「こんなのは逆に酷くて驚かれるようなものなんだ」
「自分の本性(本来の姿)をもろに見せてしまっても色々酷くて低レベルで驚かれるだけなんだ」と胸を張って言えますから。
「良い結果が出た」と言えるだろう。
でもそう言えるというだけで、リアルだと(凄くて)驚かれてしまうことは確か。
遠回しに言いますが、少なくとも身の回りにいる人達(知人)の能力などは
もちろん分野によりますが色々な分野において自分よりかかなり○○。
(サイトがどうこうではありません。以前はサイトなどありませんでした。
どれだけ軽視されているのか?自分は誰からも驚くほど軽視されている)
認知力、把握能力、知識…
何を言おうと↑違いない。
自分の見えているもの、聞こえていることが確かな限り。
もし知人の方が上だとすると、知人は自分の前で常に力を隠し、能力の低い人を演じている…
または自分の見えている知人の姿や声、知人の残す形跡などは幻想ということになる。
そんなことがありますか?ありえないでしょう。
ネット上の人なら絶対知人の方が能力が上だと言うでしょうが、残念ながらそれは違う。
残念ながらどう足掻いても知人を持ち上げることはできません。
だから自信があるわけで、自信がある素振りなどしていません。断じてしていません。
ネット上の人は「自信があるはずない」と思うようですが、これ↑が事実です。
だから嘘ではありません。
知人には1年かかっても分からない機械やゲームの仕組みを自分は1分足らずで把握できたり、
知人には一生かかってもできないパズルや何か組み立てるものなどを自分は3分で完成させられたり、
知人が把握できない地図を自分は瞬時に把握できたり、
知人がどうあがいても描くことができない細かい絵や立体感のある絵を自分は意図も簡単に描けたり、
(↑自分の絵は糞。そんなのおかしい嘘ではありません。
知人は現に普通書けないような凄い絵だと散々言っていました。幻ではありません)
知人にはできない(目視することすらできないような)細かい作業が自分にはできたり、
知人が忘れていることを自分は正確に覚えていたり、
(「これまでの全てを覚えている」とは言っておりません。全てを覚えている人間など人間ではありません)
知人がまず直せない壊れたものや不具合を自分は直せたり、
知人が一言二言でしか書き表せないことを自分はその100倍のスケールで書き表せたり、知人が忘れていることを覚えていたり、
知人には到底思いつかないようなことが自分には思い付き、良い様にできたり、
知人がちゃんとできないことを自分はちゃんと(100%まで)できたり、
知人の気づかないことに自分は気づいたり、知人の分からない原因が自分には即分かったり、
知人は数字の意味が分からなかったり突発的に単純な計算ができなかったりするが自分はそんなことはなかったり、
知人が20年見続けていても覚えていないことを、自分は20年前から覚えていたり、
(↑そんなことはおかしい嘘ではありません。
生き物の行動パターンや町の風景など毎日見ていてもいつまでも覚えていなかったりします)
知人には原因や要因が分からず良し悪しの判断がつかないようなことを、自分は容易に判断できたり、
知人はある類のことを覚えよう把握しようとして奮闘してもいつまでもそれができなかったりするが
自分は覚えようとすらしなくても短期間でそのことを覚えて把握できていたり、
知人は1つのことを覚えるのに1週間かかったりしますが自分は1日で10個以上のことを覚えられたり、
知人が勉強したり研究したりしないとわからないことを自分はそんなことをするまでもなく即座にわかったり、
知人は家具や物などをきっちり整えることができないが自分にはできたり、
知人が絶対できないと思っていることの数々を自分は絶対できたり、
知人が人の助けを借りないと無理なことを自分は誰の手も必要とせずにできたり、
知人は1つ1つの動作が苦だったりするが自分は全くそんなことがなかったり、
知人は完璧にできないのに自分は色々完璧にできたり、知人には到底作れないようなものを作れたり、
知人が「知らない、分からない、できない」と言っていることを自分は恐ろしく詳しく知っていたり、分かったり、できたり、
知人は記憶と記憶が結び付かなかったり記憶が出てこなかったりで
真実とはかけ離れたことを思っていたりするが自分はそういうことがなかったり、
知人は明らかでないことを明らかと思ったりするが自分はそういうことがなっかたり、
知人と違って色々幅広く、色々楽しめたり、自分は学習できたり、覚えられたり、
何が良いか?何がだめか?判断がついて最善の形がとれたり、
知人は嘘を言ったり各発言が結び付いていなかったり決めつけたり受け入れようとしなかったり
知ったかぶったりまやかしたりするが自分はそういうことはしなかったり、
知人は都合よく色々忘れて自分という自分を美化したりするが自分はそんなことはなかったり、
知人は色々おかしなことになっていても、自分はそうでもなかったりetc.
挙げていったら切りがありません。根本的に違う。身体的なことに関しても色々ある。
1度そう思ったことがある←ではなくて、「知人といると四六時中そういうことを思う」。
だのに知人は皆自身の方が上だと思い、上から目線の先生気取りでいるという…
自分の方が劣っていると 感じる ことは、もうほぼない。
とはいっても自分は超人とも思わない。
何というか知人とは考え方や力の注ぎ方が違うだけ。
超越した能力や特殊能力のようなものは何もない。
各分野ごとにおいて自分よりできる人がこの世には大勢いるということは分かっています。
「あらゆること」ではなくても、できる人は自分と同じような感覚で何かできたりする。
ただできない人はできない。感覚の違い?
自分の身近な場所にはできる類の人、自分のような把握力のある人がいない。
言ってること、分かりませんか?
分からない人は他人のことを良く見ていないか、同類の仲間としか関わらない人ではないですか?
できる人はできる、できない人はできない。
同じ人間でも信じられないほど差があるケースは良くあります。
世代や性別によっても大きく違います。分かりませんか?
良くあるのでおかしいことではありません。知的障害者とはなりません。
おかしいと言うことの方がおかしいです。
理解していないといけない。
自分の知人の中には自分とは世代や性別の違う人が大勢います。
もし身の回りに自分以上の(自分には敵わないと思えるような)人が現れたら、心境がかなり変わる。
自分は馬鹿にされているので、「適当に根拠もなく何となく想像で自分は有能だと思っているのだろう」
はたまた「何か1つの馬鹿げたことを根に持って自分は有能だと思っているのだろう」なんて思われますが、大間違いです。
なぜか訳もなく自分は有能だと思うはずありません。そんなはずありません。
繰り返し言います。そんなはずありません。
自分は自分という人間を誰とも照らし合わせていないからそう思っているでもありません。
「比較対象になる人間」がいるからそう思うようになったわけです。(当然)
自分と比較できる自分以外の人間の存在なくして有能と思うはずない。
本当に、人に思われることは訳がわからない。
知人と話したら、知人に様々なこと教え、知人を成長させることができるでしょう。
「超」がつくほど優良なサポーターにもなれる。(本気で言っています)
知人を見ていれば見ているほど、自分が非常に有○だということを実感する。
もう次元が違う。
何も教えられず、力を抑えていないといけないのが本当に惜しい。
生きる世界が違うレベルの差があり、付き添われていないといけない、共に生活していかないといけないことが苦。
それなのにその知人らに自分は低いレベルの人間だ弱者だヘマしまくるやられまくる無能だと信じられ続ける。
何も知らず、かってにそう思われ続け、それ相応の扱いをされる。
本当にそう思っていると、その人はそれが失礼なことだとも思わない。
理解して配慮してあげている(良いように考え良いことをしてあげている)ように思ってしまう。
それがまた嫌らしい。
「何も言わない=何も思っていない=何も考えていない=無能」一般的にそう認識される。
猿が人を犬だと思って馬鹿にしているようなもの。本当に。
人が猿による犬に対する扱いを受け、それがためになること意味があることだと思う?
思わないでしょう。酷すぎる。
そんなでどうこうさせようとしてくる側までも酷すぎるわけ。
どれだけ細かく説明しないといけないのか?
(↑誰にも理解してもらえないので、
何とかして理解させようとしてヒートアップしてまた若干危険なことを書くまでしてしまいました。
人を貶す心のない糞人間確定?もはや人間ですらない?
↑とある個人に対して言っているわけではないので容赦範囲内だと思いますが。
そんなことを言う人の方が心がないように思えます。
他人を思いきり貶しているのは誰ですか?
知人を擁護する正義にも見えません。
もしそんな心が無の人間なら人のことなんて気にせず、人に見られていても動じず、こうなっていなかったでしょう。
ネット上の人によく思われるような心のない人間なら、ある意味楽。
密かに深刻な気持ちになってしまうようなこともないだろう。
真実の自分は、誰しもが想い描く想像上の自分とは違う)
こう言っても何を言ってもネット上の人は全部嘘だとし、知人の方が上ということにするのだろう。(ですね)
自分が悪くなるようなことは一言で認められるのに、自分が優位になることはどうしたって認められない世界。
それがネット。
(おかしい嘘などと言う人、本当のことですから、自分だけでなく予期せず自ら知人に失礼なことを言ってしまっています。
ネット上の人には「自分はおかしい、嘘を言う、自分の言ったことならかってな解釈をして思いきり貶していい」
という固定概念があるように思いますが、そんな自分ではなく知人に言ってしまっている。
そういうケースはわりと良くある)
嘘を言う意味がない。
嘘を言ったら意味がない。
自分はこの事情によって色々なことを阻害されています。
現状打破したらその阻害されるものがなくなり、今のように「変に」力を抑えたり行動を制限したりする必要がなくなって
常に全力を出していられるようになり、素晴らしい世界が広がるでしょう。
だからこそそうしたいと思うわけです。
知人よりも上の境地に移行できる。
能力が低い人は能力が低いことが分からず、自信満々でいるもの?
本当に能力が低いがために自信なしの人(実際に能力の低いのに自信がない人)なども
明らかに大勢いますが、ならそういう人との違いは何か?
自信があることは即ちできないことになりますか?
自分がそれなら、知人らは何なのか?
色々疑問です。
何かが「できなくて」叱られ、嫌になる…そういうことは普通必ずある、ありきたりなこと。
ごく普通の、つまらないこと。
だが自分の場合それはなく、その逆のような感じ。
こんな人はいない…。
知人を擁護する必要はない。
何がどうあろうと、悪いことにされるのは「自分」。
貴方もそうしているでしょう。
自分は悪を寄せ付ける磁石で、悪の塊。
「自分は能力が高いと思いたい」とかそういうことはない。
能力が家族の思っている通りなら演技をして能力を隠すようなことをしなくても良かったわけです。
むしろそうは思いたくなかった。
けど実際、事実として、それが高くて、驚かれるから、そうせざるを得なかった。
そういう話。
誰も見ていなくても全力を出すのは怖かった。
能力の高さを隠すためにできないわからないふりをするようになったわけです。
能力が低いはずない。
長いことそうしすぎて暴いても誰も信じない状況になってしまった。
そのようなことは誰もわかっていなかったし。
ともかくいろいろ「できない」とかってに思われるが、
実際、自分はできないことがなさすぎて何というか「できない」の意味がわからない。
「できるようにやればいい」←だけの話。
本当に簡単なこと。なのにかってに重く見られてしまう。
できない人のできない感じはよくわからない。
できない障害者の感覚などもわからない。
そんななのにできない、障害者だとか思われていて空しい。
自分は「自信がない気弱貧弱…」ではない。
全くそんなではない。
「できることはできるとわかっている」から、あらゆることを認識していて想定積みだから、「不安」とかも皆無。
いい加減受け入れてください。
できない証拠もないのに、自分は現状とにかくできないわからない糞だと思い込み、そう言い続けているなら、
そうだと自覚させさる(明白にする)ことをしてみればいい。
そうしたらこちらではなくて、そちらの方が誤解を自覚することになります。
「人からできないと思われている」のに実際はできるから、
あえてできないと思われるようにし、いつまでも本当にできないと思われて止まない。
家族も皆、自分より上の立場だという意識が強いから、見下してきたがる。
単純に知的水準が低く、「知的障害者に近い存在」なのは知人らの方。
こちらからしてみると信じられないような低水準な思考回路。
少し頭を使うことをすると、すぐに自分との知的水準の大きな違いがわかってしまう。切ない。
自分は知人にそんな知人自身より遥かに低水準なものだと信じられているから泣ける。
皆自分は並外れた低水準、即ち価値のない人材だと思っており、時間などを奪っても、惜しいとも何とも思わない。
単に「できる」ではなくできるすぎる。
あと「できる」だけでなく、わかる。知りすぎる。
それがどうしても受け入れられなくて悲惨。
知人らは自分が人並み劣る無能だと信じているため、自分は自分でも生きる価値がないと思うものだと思っていたりする。
自分は人を犠牲にしてでも生き残るべき人材。いらない存在は自分ではなく…
本当に、知的障害者でない限りありえないほど無知だと思われている。
・中学校以前の知人に説教される △
最も感情を揺さぶられる存在なのは中学校以前の知人。
家でも話さなくなり(普通ではなくなり)、逆におかしくなっているということを知られたら一溜まりもない。
もし知られて何か言われたりでもしたら、正気でいられなくなって何か変わるかもしれない。
親はそれ以前をかってに黒歴史のように見ている。中学校が終わったその時点からすでにそう。
それ以降の方が黒歴史だと思うが。抹消したいのはそれ以降の方。
心の問題なので、こういう形ではなくともともかく心を動かすようなことをされると、効果がありそう。
有効なのは何というか動的な訓練ではありません。
言葉などによって「心を動かすことをする」ことの方がまだ意味がある。
改めて言いますが、現状を知られることはとんでもないこと。
そのことは理解してほしい。
まだ常時本来ではないどころか、逆に恐ろしく悲惨な有り様になっているわけです。
これを実行するということは、即ちとんでもないことをやらかすこと。
・催眠術により催眠状態にする ○?
うまく意識を変えられたら、その間話したりすることができるかもしれない。
寝言なら言える(自分で自分が喋ったことに気づかないので)のと同じ。
程よい昏睡状態ならいいわけです。
昏睡状態になる方法はほかにもありますが、そのほかは良くなさすぎる。
今やより知恵もつき根深くなってしまったので、
知人の前で本来の姿を見せるということははっきり「意識」がある限り、無理に近いほど難しい。
催眠が溶けても、スムーズに溶ければ平気だという感覚が得られて
(もしくはまだ催眠状態であるフリをして)しばらく本来のままでいれる可能性もある。
(これは自分で思いついたことではない)
(動画←で)体験してみましたが、結果:全く催眠術にかからない
潜在意識を書き換えることもできそうにない。
・酔っぱらう ×
経験がないのでよく知らないが正気を失い意識がなくなるなら、いける。
話してしまえればその後も平気になる可能性が。
これは催眠に近い。
酔いが覚めれば元通りになるという常識があることが少し問題。
でも現実的な厳しさは緩い。
酔ったらおそらくかなりの高確率で自分は知人の前でしゃべるだろう。
・寝言を言う
聞いた人に声に慣れてもらえるので多少良いかもしれないが、
それ言う体質ではないし、聞かれたいとは思わないもの。
無意識を装って何か言い、覚えていないことにすれば問題ないわけだが、
一時的にではさほど意味がないし、問題ないとはいえ、なかなかできなることでない。
・テレパシーを通して会話する △
心を読むことができる超能力を持つ人となら話すことができそう。(前々から思っていたこと)
身近なところにそういう人がいたので(会ったことはないのでどの程度読めるのかわからなし、信じがたいが)、
超能力は存在すると思っていた“ことが”あった。
もし読めるなら通訳としても使える。
話すことに慣れるために有効。
・本来の時の自分の姿を映した映像を知人に見せる ?
このページの1番上のリンクの話にもあったが、それなら無理はないし、有効かもしれない。
否定的な人が多いですが、自分はむしろやってもらいたかった。
怖いがいいかもしれないと前々から思っていたこと。
ちなみに、家にいる時の様子(自分の本来の姿)を盗撮して、
それを密かにほかの人に見せているクラスメイトはいた。(小5の時のこと)
当時はあるきっかけにより家でも一部の家族と話しにくい感じになりかけてきているころだったが、
話しているところが写っていたようで、むしろ良かったと思った。
話せない人とは思われたくなかった。
もっと見せびらかしてくれても良かったの「かも」しれない。
・ネットで知り合った人に自分のリアル知人と交流してもらう △
代行して何か言ってもらうようなことができたり…
これは少々危険。
・学校で食べ物を食べる △
もともと、現状打破を果たすためのキーはこれだった。
「微々たる量」ではあるが食べてしまったことがあったが、その時は「普通になれるその時来た?」的な感覚になった。
元の自分に戻れたような気がした。
でも根深くなってしまったからか、話せるようにならなかった。
そんな気がしただけであった。
その時、もうこれではだめなんだと思ったが…
“自ら”食べたとしたら、どうだったかはわからない。
まだ症状の根の浅いころ、自らこれをやり、(現在まで続く今回のこの状態を)一瞬また克服しかけたことがありましたが
その時!前にいた某クラスメイトが驚きの声をあげた。
それで恥ずかしくなってだめになってしまった。。
そういうのをやめてくれるよう伝えてくれていたら…今頃どうなっていたことか??
その時はぎりぎりで口に入るところまでは至らず、誤魔化すことができてしまったので「食べた」とは言えない。
・1度喋る ○
1度声を出してしまえば、1度自ら動いてしまえば、それ以降普通にやれる のではないかと思っていた。
だが食べる件と同じ。
そういうことが学校であったが、その時、元に戻れたような気がしただけ。
根深くなってしまったからか、だめ。
1度きり。
しかも今となってはそうしたとすると、その後翌日になったら前日のことが恥ずかしくてたまらなくなることでしょう。
少し時間が経ってから改めて思ってみた時のことを考えてみるとできない。
・厳しくされる ×
そもそも厳しくされていたらこうはならなかったかもしれないわけです。
家から追い出すくらいの感じになってくれたら変われるかもしれない。
大人になってもそのままならそうなって変われるかと思っていたが、、いつまでもそうはならない。
だがいずれさすがにそうなる時が来るかもしれない。(いや残念ながら来ないだろう)
お前は重度障害者だ。何もできない(できるようになる余地ない)から何もしなくていい←で片づけられてKO。。
現代が何もできないフリをして何もせずに生きていられるような、甘い世の中であったことも裏目に出てこうなってしまった。
「もともとの本質的な障害だから環境がどうだろうと関係なく必ずこうなっていただろう?」←それは酷い間違い。
自分を取り巻く環境を作った人は自身を正当化できるので、そう解釈したがる。
自分が自分の保護者なら絶対にこうならないようにできたと思う。
後者の自分を理解していますから。
どうしたらいいか、どうするのが有効かわかる。
・障害者に話しかける ○
理解力がなく、言葉を発することができないような人(赤子・動物も該当する)にならなんとか話しかけることができる。
こういうことをしていれば話せるようになるか?的なことを思っていたが、
いざやろうとしてみると「だから何?」と思うだけであった。
・激しいメール友達を作る △
日に何回も何十回も一方的にコンタクトを取ろうとしてくる人を知っていますが、
何か行動を起こす上でそういう人がいると良いと思う。
「自らの意思で行動している感覚」をなくせると行動しやすい。
(そうは見えないかもしれませんが)↑通話をしたことなどに関して書いた内容の中で言った通り、
実は話すことが凄く怖いので、相手側から常に攻めてきてくれないと会話もできない。
色々すれ違って誤解されて食い違って面倒なことにもなるだろうが、それでも話せる相手がいると違う。
その存在は大きい。
普通に仕事で稼いで生活するくらいになるためには、(激しくなくても良いのでともかく)話せる相手を作ることが必須。
・1人で独り言を言う ○
誰もいない時に、あえて多めに言ったりしていると、人前でもうっかり何か言ってしまいそうになってまずい。
それだけでした。
・1人の時、堂々とする ○
誰も見ていなくとも、狭い場所などにいないと何か恥じらわしい感じがしてしまうのだが、
そこで恥ずかしさを感じずにいれるようになれれば何か変わるか?とも思ったり。
・少し声を出す ○
小5の時、道端で遭遇しただけの人や、話さなくなったことをあまり知らない人の前で
何気なく声を出したりしてみたことがあったが、だから何という感じ。
現実的に考えてみるとそうなって当然。
もうできない。
・何もしないようにしてもらう ×
知人に見られていなけば本来の状態なわけですから、
知人に構われず見られていない時をほとんどにすれば、ほとんどの時間本来の状態でいれる。
現状打破に近い。(常に構われなければ完全に現状打破)
序々に手を出さない(自分に何もしない)ようにしていく形で
欠かせないことにも手を出さないようにしていけば多少知人が不安になりにくいかもしれない。
欠かせないことを本人に任せるというのは知人的にNGに近いか。
いないものとみて、何もしないなら別の家にいることとある意味同じです。
固定された長い本来の状態の間にするべきことをする…という案もある。
世話をされることは迷惑です。
相手(知人)にとってもそうでしょう。
つまり互いに迷惑。いいことなし。
でも世話をしないと犯罪で(そう見ている)、何もしないようにしてもらうということはできない模様。
迷惑なら何もしない(構わない)でいてくれればいい。
だがそうしてこないのが現実。
自分は何もしていないし、何も要求していません。
(家族を始めとした)知人は自ら迷惑することを作っている?だけです。自業自得。
「少しくらいなら世話をしなくても問題ない。
世話がままならなくて放置されたりおそろかな扱いをされたりするだろう」←凡人は皆そう思う。
そんなことはない。
しっかり保護されて世話され続ける。
このままなら一生涯そうだろう。
自分にとってはそれが全く良くない。
「おろそかにされた方が圧倒的に幸福」なわけ。価値的なわけ。
…誰もそうは思わない。
こう言っても「そんなわけない」という感じで誰にもそうは思ってもらえないだろう。
不幸。
知人に何かやらせているつもりは全くない。
かってに自分にあれこれしてくるだけ。
なのに「自分にやらされている」だと思って悪く言われるから、たまらない。
金を稼いでいないのだから、食べる資格も電気を使う資格も何もない。
人間なら普通そう。不平等。
だから(そういう意味でも)極力食べたくも使いたくもない。なのにそうはさせてもらえないという。
こんなやつは早く縁を切って追い出せばいい。
自分は反則的な人間。
こんな風に生きていたら、普通に働いて生きている普通の人に悪い。
手間も食費もエネルギーも自分に注ぎ込んで(費やして)くるなと言いたい。
なのにガッポリ金を注ぎ込まれ、ガッツリ食わせられてしまい阻止することはできない許されないという。
「費やさないよりは費やす方が良いんだ」と皆思い、逆に普通以上に費やされたりする。
遠慮は利かない。
嫌だし、食に関しては無駄に多く費やされると単純な意味でまでもそちらの方が大変だし良くない。
メリットがない。デメリットだけ。
「費やさない方が良い」というそちらの発想は誰も持たない。
良いことをしたい一心で費やす。
そういう心があると逆に良くないことをされる。皮肉。
自分のために金を使われることは嫌なこと。
だが誰もそうだとは思わない。
金投資され放題、食い地獄の苦しみ哀れみがわかる人は“いない”。
誰しもが苦しく哀れなのはその逆だとしか思わないから。
人は逆のことなど考えもしない。
人に何も望まず、関わってこないでほしいと思っている人はその対象の人に関わられる。
人に何かを望んでいる人はその対象の人から嫌がられ、関われるのを避けられる。
そういうものなのか?
誰にも利点がない。色々なことが台無しになる。
「家族は自分が家族であること(親は自分を産んでしまったこと)を屈辱的なことだと思っている?家族は自分のためではなく、
家族自身の身のために自分を世話し続けている?本当はこんなやつ見捨てたい?」
家族自身の身のために自分を世話し続けている←これはあるだろう。
それが自分を見捨てることができない大きな要因かと思う。
それは自分が障害者にされたから。
(障害者を見捨てたら逮捕。障害者は自らの意思で家を出ても形式上そうはならず保護者が出したということになる)
家族は自ら自分を障害者にしておきながら、それによって自身も危険に晒され、世話をし続けないといけないハメになっている。
障害者を支援する人達との関わりをなくした上で障害者の肩書きをなくせば見捨てても家族は捕まらない…
なら、そうすればいいことだと思う。(見放すことは絶対無理とは言えない)
本当の重度障害者やその保護者は、いつか見放され放棄されてしまわないかと
将来のことを心配したりすることがあるようだが、全くそんな必要はない。
自分はいつまでも見放してもらえないことに不満を持っている。
見放されること、呆れられること、嫌われることなどは全く怖くない。
何せ見放されること、呆れられること、嫌われることなどを逆に望んでいますから。
(本気で嫌われ嫌がられれば「こんなやつ消えていい」と思われ
〈↑「最初からそう思われているだろう」とそうネット上の人なら思うことだろうがそれは違う〉追い出してもらえるかもしれない)
保護者が逝くことも同様に怖くない。
逝ったら現状打破して輝く世界が開けますから。(開けなくなくありません。しっかり考えた上でそう言っています)
人を頼らないと言うと頼れと言われる。頼ろうとすると頼るなと言われる。
人には「絶対そうするべきではない、そうは思わない、お前にそんなことはできない(かってな解釈)」などと言われ、
根本的に全否定されて誰も乗ってくれたりはしないのでどうにもならない。
どうせそういうもの。
人に何も求めない。誰にも期待しない。1人で何とかする。
そう考える。
理解者は0。
人がどうしてくれること、どうなってくれることを強く願い、
その願い通りになってくれることが自身の幸せだというような人がいますが、それでは厳しい人生になるだろう。
夢も能力も考え方も重要視していることも人それぞれ違うのだから、人は人、自分は自分として生きるのが良いと個人的には思う。
ネット上の人には理解しがたいかもしれないが、自分が家族に見放してもらえない理由のうちの1つとしてこれがある。
「人間は一人では生きれないもの?」
↑ほかの生き物(動物)は皆一人で生きているのに、最も優れているとされる人間が一人で生きれないというのはおかしいです。
そう思いませんか?
1日知人(家族)といたら1日何もできずに終わってしまう。
迷惑者になってしまうし、自分の力を全く活かせない。
力を99%隠し続け99%持て余している。
知人は皆自分より知識や能力が低…高くないので、自分は知人に対して
「なぜ分からない?なぜできない?なぜそれを間違う?なぜ忘れてる?」みたいに思うことばかりでムシャクシャする。
そうとも知らず、知人は自分を知的障害者と同類と思っていますからある意味自分を軽視し馬鹿にし不愉快。
わかりますか?そんなで知人といたいと思うはずない。
障害者と同類だったらこうなっていない。(←この意味は知人には全くわからないでしょう)
しかし家族に気にされない人、家族から嫌われている人、家族から見放されている人、本当に羨ましい。
そういう人はその逆の人を羨ましく思っていたりする。
…うまく噛み合わないもの。
こっちは何もしていないのだから、気にしなければ何もない。
かってに人に対してどうこうしてきてその人に苦しめられてるみたく思うのは、その人に失礼。
その人が派手に巻き沿い食らうし。
自身の考えしだいで苦しめられないようにできる。
気にしてくるのを本当馬鹿らしく思う。
熱心に構われるほど、派手に演技し続けることになる。
健常者に見えないようにどれだけ気をつけないといけないか、どれだけ心苦しいか、どれだけ恥か。
そのことがわかる人も世界に「誰1人」おらず、皆、派手に演技させるようにしてくるから地獄。
皆構ってあげていることが良いことだと思っている。
構われていればいるほど残念だというのに。
構われがちな日は、残念な日、苦しみの日でしかない。
全くもって、体(身体・脳)にできる機能が備わっていないわけではないというのに、できないと見なしてくるわけ。
信じられない。
そう見なさない方が普通な気がする。
本当、世話してくる行為、やめてほしい。(世話してくるのは、できないと見なしそう思い込んでいるから)
・嘘を言う ○×
気付いていない人も多いが、嘘でどうにでもできる。
嘘で家族らをコントロールすればどうにかなる。
がしかし、気が引け、あえて、それはしていない。。
知人らの側もまた、嘘で自分をどうにでもできる。
死んだことにでもできてしまえる。そんなたいそれた嘘ではなく、ちょっとした嘘でもどうにでもできる。
平気で嘘が言える特権を活かし、どうにかすればいい。
・○○ ○
成人した時から本格的にやり出して150時間を越しているがどうもなっていないのが現状。
逆効果だと思えるようなことがほとんどだがそうでもないと思えるようなことも。
本当に逆効果ならその逆もありえるということなのでむしろ希望が芽生える。
心は理論で成り立っている。そういう人の場合、どうなのか?
「何かに対する想い」というのは、最初からずっと同じ(不変)ではなく、そのものと関わっていく上で変化します。
色々な行いや結果などによって色々と感情を揺さぶられますから、それによって変化する。
言っておきますが、普通にしています。
普通の人のように普通にやらなければしたことにはしません。
そうでないと自分を許せません。
かってに変なふうに思わないでください。普通の人と思ってください。
良いことだと信じて精一杯善意を持って行ってきたことが誤解で、別の人は精一杯善意を持って逆のことを望んでいたり、
ある人にとっては良いことでもある人にとっては悪いことだったり、信じて望み続けていることが間違いで無意味なことだったり…
善悪の基準はよく分からなかったりするもの。
神も悩むだろう。
迷信を信じ続ける人がいるように人は根拠がなく何もないことを信じ続けられる。
その通りにならなくても、何かが足りなかった、その程度で済んだ、良いことへと通じる何かだなどとし、
どうにでも肯定的にポジティブに解釈できるからだ。
・ネットの掲示板で会話する ○
電話とゲーム機を繋いで見知らぬ人と会話できると聞いたのは98年頃のこと。
それならできそう。本当ならやってみたいと思った。
違う形ではあるが、その見知らぬ人との会話は2004年の時点できた。
これができていなかったらどうなっていたことか?(できない方が良かった?それはないです)
ネットがあるから現実で会話をしないわけではありません。
ネットをなくしたからといって現実で会話はできません。
自分はずっとネットのない世界で生きていました。
あと言っておきますが「掲示板でネットで世の中を変えられるから現状打破しない」なんて馬鹿げたことは考えておりません。
自分のためだけの人生では生きた意味がない。
ただ生きるだけなら生きなくていい。
・特に考えず、いきなり現状打破する ○
それができないから色々な案を出したわけだ。
これは原点回帰案。
いきなり戻った上で、今日からどうするか話し合う。
各場面に応じて、各知人に対してどうするか?どう説明しどう過ごすか?今や考えれば考えるほどもうマズイことだらけ。
困惑が絶えないだろうが、成り行きに任せる。
今やあまりにも恐ろしい現状打破方。
だが頼みの綱である○○○○はこうすることを推し進めているとしか思えない。
どう意気込んでもこれは厳しい。ボケない限り。
それでもこれで行くとしたら、↑↓の現状打破方を熱心にやる形になる。
これは、これまでずっと望まれてきたことでもある。
どういうわけで自分がこういう状態でいるのか?相手は何も分からない。
そうなるとやはり「今いきなり話せ」と言われます。それを望まれます。自然なこと。
これで通すなら結局はその形を何も変えないということに。
それでは何も変わらず終い。
このページを作った意味もあまりなかったということに。
・その他
このほかに良いと思う方法はありません。
良いと思ったらここに入れているので当然です。
理論を無視して何かするのは理論上、無意味路線へ走るとしか考えられない。
だが知人がしたがることはその「その他」。
厳しい。
これら以外のことは全て理論上意味がない。
自分を理解していない家族等があれこれ考えても、根本的なことがそもそも色々間違っていたりで話にならない。
誰も理解していないので、誰かから薦められることも全部的外れ。
というか何というか、間違えていてハズレ。
何も理解していない人が何か言っても基本、的はずれでしかない。
理解しないとその人の助言は助言にならない。
そんなで知人の考えることは何のメリットももたらさない。
何も知らない初対面の人のことを超能力で知ってるつもりになってどうこう言ってるのと同じ。
毎日見てるから、家族だからなんかわかる伝わるとかない。(色々わかっていなかったことを自分は確かにわかっている)
これほど理解していないのに、どうこう思ってどうこうしようとしたりするとかない。
そのこと自体間違い。
どうこうするなら理解するのが先だし、理解がないなら手を出すべきではない。
家族らはまず「理解」しないとどうもならないのに、その過程を飛ばして自分に対してどうこう思い派手にどうこうしてくるから悲惨。
家族で日々見ている構っているのに、こうも理解していないというのは一般常識に当てはめると「酷い」こと。
何も知らないのに、お前はできない知らないわからない無理に決まってるとか失礼極まりない。
これだから何もできない感じなのに、それがどうしてもわからない。
「~だと思う」だからだめなどと言い張り、他人の意思を無視して行動し続けたりする…それも良くない。
実際にやってみたり、やめてみたりして結果を出してみないと、別の考えを持っている人達から永遠と不満を持たれたまま。
自らもその人達に対して不満を持っているまま。
家族は自分にやらせたいことがあると自分はやりたくなくても押し通してやらされる。
実際プラスにならないことだからやりたくないわけでそうされても何にもならない。
自分のやりたい(プラスになる)ことは家族がやりたくなく、流される。
何でもほとんど相違してどうしようもない。
自分に有効なことは↑これだけある。
“「どこか遠くで1人で暮らす」がだめな場合、どうしたらいいのかわからない”ではありません。
間違えないでください。
ただそれ以外の場合、改善できる保証はない。
「できない障害者だということを周りに理解してもらわないと1人で動けないだろう?」←これはあまりに酷い誤認。
「できない障害者だと思われているから」、できない。
思われていなければ何も問題なくできる。
できない環境をあえて作ってどうする?
周りの人から「障害者です、できません」などと思ってもらえるように仕込むとか、ただのとんでもない罰ゲーム。
いろいろ真逆なことを思われて、真逆のことをされ続けるから一溜まりもない。
自分を知らない人が敵ではなくて、知っている人が敵。
見知らぬ人の方が自分を理解している。
こう言ってもどう言ってもこういったことは信用されず、受け入れてもらえないから、どうしようもない。
(いくらなんでも)この言葉の意味がわからないということはないでしょう。
受け入れてもらえないからだめ。
自分の言葉が言葉になっていなくて伝えることができていない=無能、知的障害者とか認識する人がいますが、酷いこじつけ。
しかし毎日見ている人よりも、会ったこともない見知らぬ人の方が自分を理解しているというのは本当、
何というか自分でも信じられないような有り様。
家族にこのことに向き合われると、今や「本気で」低レベルに見られていること、
「本気で」何も知らないできない知的障害者のように思われていることが目に見えてわかってしまい、何というかあまりに悲しい。
そんなでもう近寄りたくもない。
本気で本当に無能で障害者だと思われているわけ。
これでは本来は見せられない。
本当にできない変なやつではなくて、そう思われているから、そういうふりをせざるを得ないと言っている。
自分のことをそういうふうに思っている人の問題「でも」ある。
悪く思われたらその通りの人のふりをせざるを得ない。
その意味で悪く言うことに利点ない。
「できるようになりたい」というより、「できる環境(即ち家族のいない環境)で生きたい」。
こういうことを言っていても、「できるようになりたい」としか目に映らず、
いままで通り無意味の定番「訓練」になってしまったら何にもならない。
「知人がいなくてもできるように、知人がいる時に訓練させる」「家族がいなくなった時に備えて1人でもできるようにさせる」
「人前でできるようにするためにまず知人の前でできるようにさせる」
↑これ、もう言葉には言い表せないほどに馬鹿らしい。あまりにも酷い考え。酷い間違い。
「いるからできない」とどれだけ言ってる?
できるようにさせるとしたら、それはいる時。
「知人」と「その他の人」はもはや全く別。
毎日見ている人がそれだから、あまりに理解がないから、泣ける。
知人が「できるようにするための訓練」だと思ってさせてくる訓練は、全くそんなではなく、
「できないふりをする、演技の訓練」になっている。それだけ。
そうとも知らず、相手してくる知人も哀れ。
「知人の前でどれだけできるか?」は、即ち「どれだけ演技を控えめにするか?どれだけ力の抑制を緩和するか?」。
なのに知人は皆、どれだけ覚えられるか、把握できるか、
スキル(幼児レベルの)を身に付けられるか、体を動かせるかだと思っている。
でそれ相応のことをされ、時間を潰される。
…もう、言葉で表現しきれないほどの馬鹿らしさ、空しさ。
「できるように頑張れ」だとかも酷すぎる。
こちらからしたら的外れで意味がわからない。
何せ頑張ってできないように見せているわけ。
できないようにすることを頑張っている。
…全くわかっていない人に操られる悲惨さ空しさ苦しさ恐ろしさは凄まじいもの。
頑張らなければできる。頑張っているから、知人らはできないと思い込んでいる。
知人らの理解度は本当、信じられないような次元。
知人の言う「できる」をしてしまったらそれはミス。
できたら馬鹿。できないでいれたら有能。
誰もそうだとは思わない。受け入れない。わからない。でどうこうしてきて悲惨。
自身の思っている自分の形を一旦全部崩して構築し直していい。
常識外れなことは受け入れられず、常識の中の何かに当てはめてどうこうされてこの様。
常識外の人間はいろいろ悲惨。
知人が自分にしてきたこと全て無価値ですからこちらからすると、自分に何をしている?頑張って何をしている?
知人は自分の何に苦しめられているんだ?という感じ。
知人がやらせてくることに自分は乗っていないし(無価値ですから当然、乗るはずもない)、自分は何もしてるつもりはない。
かってにどうこう思ってどうこうさせてどうこうして…
こちらから見ると知人は自分自身で自分自身を苦しめているだけ。
…それだけならまだいいが、派手に自分を巻き込むから嫌らしい。
何もしてこなければ自分でするのに、、本当馬鹿らしい。
「話してもいない見てもいない」のに、かってにどうこう思ってどうこうさせてくる。
ありえない。
で全部間違っている。で酷さに気づかない。
自分でしていることは現状打破に近づく要素があるので、そういった意味でまだ価値がある。
知人とどうこうさせられるのは、ただただ時間を失うだけ。
何の価値もない。
知人らは「話す」ことは無理だが、「動く」ことはできるかもしれないみたく思っている。
(で話すのは無理だから話すな的な感じだったり、話させることは眼中にすらなかったり)
皆そう思い、その上でどうこうしてこられる。
そのような中途半端なことはない。
普通のできないとは違うから、そういうものではない。
基本情報に書いた通り、話さない時は即ち…以下省略なわけ。
演技なのだから、どちらか一方となると、それは「中途半端に演技」という形になる。
動くのは話してもいい場合。話さないなら動くつもりはない。
やって良いのか、良くないのか。
どちらかによってきっぱり分かれるもの。
動いてもいい時は、話してもいい時。
長年見ていても、そのこともどのことも誰も何もわからない。
…呆れるほど厄介、人にどうこうされる身なのは。人に他人のことはわからないのに。
知人は自分を気にせず忘れて、いなくなったもの見えないものと思うようにすればいい、簡単に言うと何もしてこなければいいそれだけ。
それが知人が自分にするべき(的確な)こと。
するというか、するをやめることをすること。しないことにすること。
他人にはわからないことがある。
持っている知識とそれに基づいた考えはそれぞれ違うわけ。
相手のことを知るのは相手自身。
わかったつもりでどうこうしてくる行為は恐ろしい。
よくもそんな人を苦しめ兼ねない行為を気兼ねなくできるもの。
こういうことを受け入れず無視で、誤解しているまま無意味なことをしても、思い通りの結果が得られるはずない。
無意味(的外れ)なのだから。
全て理由、理屈に左右されている。
することは、だめな理由、理屈を取り除くこと。
理由理屈を無視してどうこうしても何もない。的外れでしかない。
無視せずにそれを取り除けば「必ず」現状打破。
そもそも「人がどうこう」しても何もわかららないのだからデメリットしかない。
単に頭がおかしい病気障害だとか思われているから、馬鹿にしていてこの様。
本当、どうしても「何かしら異常に人並み劣ることがあるおかしいやつ」と思おうとされる。
それが正しくないから問題。
- 現状打破できるかもしれないシチュエーション -
・自分が大病を患う
上記の通り()、話さないままでは人生を終えられません。
死の寸前くらいになればいくらなんでも話してしまえる。
前々から思っていたこと。
何かきっかけが必要なわけです。
そういうことでもあればイケるので、
大人になる前にはこういうようなことがあって現状打破でき、普通に人生を歩めるものかと思ったりしていた。
○○しているので○○ようになると思っていた。
だがそうならなかった。
でももはや1度話せたからといって
その後ずっと誰とでも話せるわけではかもしれないことがわかってきたし、これももはやどうなのかと思う。
聴力を失えば自分の声が聞こえなくなるのでイケるのではないかとも思ったり。
視力を失えば何かを伝える手段は口しかなくなるのでイケるのではないかと思ったり。
(伏字の部分は全て当然ですが、知られてしまうとよくないので伏せているわけです。
メールかSkypeでなら教えられるかもしれない)
・正気を失う
正気を失えば喋ってしまえたりもするかもしれないが、どうしても正気を失わないし、1度話せたからといってその後etc.
大病を患えば正気を失うかもしれない。
・知人が大病を患う
絶対に話さないまま終わりにしたくないわけです。
もう今しかないような状況になって良い感じの場が作られれば話してしまえる。
でも1度話せたからといってその後etc.そのことがわかってきたので現状打破の厳しさもわかってきた。
厳しい。。
・拉致被害者のように拉致される
おそらく生活する上での自由度が低く、厳しくされる…現状打破する上で最高の形かもしれない。
そう前々から思っていた。
なので誘拐されそうになっても拒否りたくならない。
自由度が高いと自分の個性が見えてしまうので、やりくりしにくい。
こういうことを装った芝居をしてもらうというのもあり。
芝居なんて壮大なことをしようとする人はいないし、バレないようにすることは難しいのであれ。
・独房で監禁される
そんなことがあれば、いきなり知人の元から離れられるのでいけるのではないかと思ったり。
・ネットで知り合った人の家と、自分の家とを行き来できるようになる
上記の通り。
人前で本来の状態でいる時間を作れる…だがハードルが高め。
・無能になる
認知症になって(ボケて)無能に(本当の障害者のように)なったとしたら、
自発的に何かしたりしてしまう(よって色々なことをやれるようになる)可能性がある。
そうなると今の人格は失われ、自分が自分ではなくなるかもしれない。
色々な意味で悲しくもある。
そんなでは意味がないかもしれない。
「戻らないから無能だ」的なことを言われたりしたが、逆です。
無能だったら戻っています。
「記憶にないほど昔から症状があるなら最初からと同じ」みたいなことを言われたこともあるが、
記憶にないというのは明らかに間違いな上、そんな昔ではない。
記憶力がないほど無能ならこうなっていません。
思考が働いてしまうからこそ、元に戻れなくなり、環境の変化に応じて良くも悪くも変わりながらより重度化した感じ。
本来ではない時は頭が働いていない?的なことを言われたこともありますが、全くもってそんなこともありません。
頭が働いていなかったら、逆に誤って普通にしてしまいます。
関係ないことを考えていて前が見えていないとうっかり普通に(上手く)動いてしまいそうになる。やってしまった例もある。
そのやってしまったら、それはミス、失敗。
頭が働いていなかった馬鹿だったということ。
だが知人にはそれをその逆(できた成長上達頭良いだとか)に思われる。本当空しい。
皆本当にできないわからないと思って対応してきている。
自分がこうなっているのは頭が悪いからではない。
頭が悪くなったら(ボケたら)逆に普通になるわけですから。
間違えないでほしい。
頭が悪いのかと思われて良くしようとされたら逆効果。
現実味のないことを言うが…
能力を抑え、欠点を作り、周りの人(知人)との整合性を保つために自分は神?によってこうさせられたようにも感じる。
「本当に」能力が知人と同レベル以下になり欠点だらけになったら整合性が保たれて常時本来になる。(治る)
そういう見方もできたり。
「人」がいるから、「人」を気にして、「人」によってこうなり、こうなっている。
もとから脳に障害がありどうもならないだとか本当にできないだとか思っている人は自分のことを本当に理解していない。
できるから、できないように見せることができている。
そんなにもできないように見えているのは、できるから。
即ちできなくなれば、良くなるわけ。
家族らは壮絶に騙されている。
・大人になる
上記の通り。
大人になれば焦って障害者をやってられなくなり、やれなくなる…
容姿が変化し、人に見られるのも平気になる…
と思いきや、大人の領域は異次元ではなく、そうはなりませんでした。
・地元で大災害or戦災が起こる
で知人が全滅すれば(自分は生き残る)確実に現状打破できる。
家族だけでも全滅すればなんとかなるかもしれない。親がいなくなれば割とこっちのもの。
だがそうなってほしいとも思わない。(それは嘘で、本当は皆死んでほしい ではありません)
「親は先に逝く」なんて言いますが、その逝く時は子供もたいてい還暦前後のほぼ終わった人。
親は子供が老人になるまで生きているのが普通。
“ずっと生きてる、いなくなることはない”そう思ってもいい。
今は70代で親が生きているケースも少なくない。
気が重い…。
逆に逝ったらだめだ、と思っている人はすぐに逝くと思い気を重くする。
人は良くないと思うことに敏感。
でもし本当にこういうようなシチュエーションがあったりで、親がいなくなったとしたらその場合、親の後継者は絶対に入りません。
常に気にされ、何かしようとしてくるのは親だけ。
その存在がなくなれば、どうあれかなり違う。
親さえいなくなれば多少姿を消しても気にされたり、騒がれたりしない。
その時は、一時的に親代わりになって処理しようとする人達(一部の知人)に捕まらないようにすることが鍵。
何とかできる自信がある。
本当に親代わりになるような人はまあいないでしょう。だから(だめなのではなくて)良いわけです。
保護されることはむしろ危険。
誰もいなければもし何かあっても自分で行動して何とかできますが、知人の監視下にいたら行動できないわけです。
動物のような存在でもないですから色々隠し、耐えるわけです。
実際に保護したら、知人はそのことを分かってくるものかとは思う。
保護して生かそうとする人に捕まったら逆に死ぬ。
知人と距離をおいてもらえるすきはなさそうですから、四六時中何もできず2,3日で死ぬ。
それでも形式上保護されないといけないとされる。
自分を捕まえようとしてくる。
家族から離れれば必ず誰の世話にもならず有意義に生きれるというのに、
国の法律上?保護して監禁した上で無駄に世話させられ、解放させることが現状では不可能という…
非常に馬鹿げてる。
自分が親を恐れていることも馬鹿げているような気がしますが、それもそれと同等に馬鹿げてる。
親に情報がいってしまうことを懸念してできないことが多いですが、いなくなるとそれがなくなる。そこも大きなポイント。
根本的に根本的に言うと「親に情報がいってしまうこと」それを恐れて何もできない感じ。
知人に情報がいくと知人から家族に親に情報がいってしまう。だから知人もだめ。
知人がいなくなると困惑することもありますが、最初だけ。
その時点で“絶対無理の壁”がなくなりますから、もう自由に動ける。
生活のことは生活しながら覚える。
知人0の状態から(人生)やり直すとしたら、もう過去の二の舞にはなりません。
(二の舞にはならない←と言っています。どれだけ消極的なのか?
何も考えずにそう言っているのではありません。
自分で自分を理解していない人間ではありません。
一度話してしまった人と話さないようにするとか逆に難しいことでもある)
「家族がいなくなるといい」とは言っていますが、「環境を変えるといい」とはここまで一言も言っていません。
なぜそれをそれに置き換えてしまう人がいるのか?よく分からない。
両者は全く違います。
家族との繋がりを持ったままなら環境を変えたとしても何にもならないですし、
家族との繋がりをなくせば環境を変える必要はありません。
家族との繋がりを持ったままの環境の変化なら、これまですでに数え切れないほど経験済みです。
家族がいるから絶対できないことがある。
家族がいなければできないことはない。
何せできない理由がないですから。だめな要因がない。
「家族がいるから安全、自分は家族に守られてる」とそう当の家族含む皆が思っているでしょうが、そうでもない。
いたら逆に危険。
「お前は1人になったら病気になって死ぬだろう?」
↑そのリスクはむしろ家族がいる時の方が高い。
病気になっても家族はそのことがわからないです。
何とかして伝達しようとしてもだめ。「口で言わない限り」何とも思わない。自身の想いを押し通す。(そういうタイプ)
1人なら自分で行動して治せます。
家族がいたら何もできません。
今やそう。
知人がついていたら何もできないのだからいろいろなことにおいて逆に危ない。
どうしても逆に安全だと勘違いされてしまう。
誰もいなかったら保護者がいなかったらだめではない。いたらだめ。
怖いのはむしろ保護者。
認識させることは困難。
そのかわり自身が直接思ったことはなんとしてでも、なんとかさせようとする。
その思ったことは実際、間違いだったりする。
それで何かしてこられても、間違いなわけですからそもそも改善も何もなく、無意味。
無意味なこと、余計なことをされるくらいにとどまっていればまだしも、
身体に良くないことをされてしまうようなこともある。それが許せない。
家族自身が自分のことに関してどうだかよく分からず安心感を得られないがために、
誤解されているがために、そういうことをされてしまったりもする。
動物のように見られているがためにそれ相応の普通ならだめな手法を(強制的に)とられてしまったりもする。
危険。。
本当に動物ならそう扱ってくれた方が荷が軽いでしょうが、実際「思考力のある人間」ですから逆に恐ろしく思ったりする。
原理や詳細や目論見をわかっている場合は逆にそれの方が精神的ダメージが大きい。
自分で行動してよければ自分の納得できるやり方で何でもやれる。
普通は皆そうしている。自分のことは自分で判断を下すもの。
だが現状の自分は人間としては特殊で、全くそうさせてもらえないですから、それが怖い。
人に操られている限り、取り返しのつかない残念でしかないことをされ続ける。
リセットできないからにはそのまま生きるしかない。
自分の場合はひたすら残念なままでいるしかない。
「残念、無念、悲しい」で終わるしかない。
感覚や考えは逆のこともある。
それがその人にとってにどういうものなのかをしっかり考えた方がいい。
人に嫌われたくなかったらそれを考えて認識して行動、発言すべき。
いくつかの選択肢があって、その人にとってその選択肢は最善でも別の人にとっては最悪、
あるいは逆にその人にとっては最悪でも別の人にとっては最善というケースもある。
取り返しのつかないようなことにもなり兼ねない。とんでもない苦痛を与えることにもなり兼ねない。
悪影響のあることをさせられ、自分はそれが悪いことだと知っていてもさせられるがまま。
させた相手がそれをわかっておらず、良いことだと信じてやまず、意地でも押し通てくる。
拒否したら逆にこちらが「悪」、あるいは「良いことを拒否する=変な人」とみられる。
人間は難しい。
で話さないとなると、もうめちゃくちゃにされる。
それで自分は家族にめちゃくちゃにされてしまった。
…親が逝くにしてもどんな逝き方をするのかはわからない。
逝くことを察知して逝く前に「「親の手によって」」知人の元に預けられる…ということになったらマズイ。
“知人の元では生きられないことを知人は分かってくるものかと思う”とはいえよ…
それが唯一ありえそうな怖いシチュエーション。
それだと今の流れの中でそうなる感じですから身を潜められるタイミングがないかもしれない。
身体を中途半端に悪くする(心は健在)ようなケースもあまり良くない。
突然頭(心)が逝ってくれるケースが1番良い。
家族はなぜか自分は知人の元なら安全に生きれる、1人だと危険、死ぬと思っている。
↑で言った通り、全くその逆なのだが。。
これをいつまでもわかってもらえないとなると、怖い。
家族がいるから生きれている、家族ありがたや←ではない。全く違う。
家族の手によって「日々」害を受け続け、嫌なことをされ続け、動きを封じられて何もできず、惜しいことになっている。
家族がいるから何もできないわけで、何もできないから家族の元にいるのではない。逆。
根本的なことを誤解しないでください。
ある意味、心が健在のまま長生きされたらとんでもない。
殺すと言っても軽視され弱者だと思われているため全く恐れられないだろう。
だから言える。
普通、嫌な人がいたら(それが家族でも)ある程度その人から距離を置くことができる。
自分はそうはいかない。
現状、(“大”騒動を起こさない限り)家族の元から脱する術がないから、絶望的。。
いなくなったら本当に万々歳。
できるだけ早く消え去ってくれることを心から願っている。
冗談で言っているのではない。
そうなったのはいままで家族が自分に対してしてきたことの結果。
「今はまだ何もできないからいなくなったらだめ」のわけありません。
今いなくなってくれて良い。
欲を言うと、その前に苦しめたい。
理解がなく、間違い、それにより良くないことをし続けてきたことに気付かせ、
そのショックでいなくなって(逝って)くれるのが理想。
家族との関わりさえなければ馬鹿げた間違いも無駄も何もない。
以前は「家族以外の人がだめ」でしたが、逆転して「家族がだめ」になった。
「家族も」ではない。「家族が」。
家族にも本来を見せないではなくて、家族「には」本来を見せない。
この方が良い。
誰もわかっていないが良い形になった
家族の人数と、この世にいるそれ以外の人の人数を比較してみればわかるでしょう。
家族以外の人全般がだめでは生きていけないが、家族がだめなだけならいつまででも1人で生きていける。
家族には「何を言ってる?全く良くない」と思われますが、こちらからしたら関係ない。
もう自分の人生にこの家族などいなくていいですから。普通ずっといるものでもないし。作り直すこともできる。
・科学が発達する
容姿を変える、別の人に一時的に乗り移ってもらう、別の人に乗り移る。そんなことができたら…
自分の意志で動かすことができ、自分の変わりに動いてくれるロボットがあったり、
無免許で運転できる運転手の姿があまり見えない乗り物があったりしたら…
長期間何も取り込まず(食べず)に生きれる生物になることができれば…法律や金の概念のない時代へ行けたら…
現状打破可能。
科学ではなくても、そんなことができる「超能力者」が本当にいたとしたら、その力によりかなりの高確率で現状打破可能。
ネットで会話ができたりする時代になってくれてありがたい。でもまだです。
もっと進んだ時代になってくれると尚更ありがたい。
自分に関することの記憶を知人から消すことができれば、いなくなったのと同じことになる。
全部に言えることだが、根の浅いうちならそれで改善できたかもしれなかったが、
今となってはこれらを実践してもたいして進展ない可能性が高いわけだ。
現実として、本当にそうした(そうなった)時のことを考えて(シュミレーションして)みたら、
もはや進展することはないだろう。という結論に至ったことがほとんど。(全部ではない)
「今」となっては、「この状況」となっては、もう本当に厳しい。
でも↑こうすれば変われるのではないか?と多少でも思っているから、停滞状態になっているわけでもある。
色々試してみてあまり進展(変化)がなくても、その進展がない(ほとんど無意味だ)ということがわかって道が見えなくなれば、
それにより動揺して気が変わってきて違うことを模索するようになり、新たな現状打破への道が見えてくるような可能性がある。
いままで実際にされてきた色々な訓練のようなものは、この中のどれにも該当しない。
本当に意味のないようなこと。
元に戻る方法はない。祈る以外にない。←そんなことはありません。これだけあるわけです。
自分でこれならできると思うことこそができることだと思いますが、違いますか?
信頼、理解を得られ尚且つ、
自身のこれらの考えが何か1つでもいいと思ってもらえ了承を得られないと協力をしてもらえないので、そこもまた難しいところ。
△×の実行は厳しいものがある。
今現在の時点で「現実的に可能なもの」ではない(夢物語のような)案は
シチュエーション全般と「テレパシーを通して会話する」くらいです。
くれぐれもそれが馬鹿らしいからといって、ほか30案含む全部を貶したりはしないでほしい。
しかし実行に移して良いかどうか悩んでしまうものばかり。
「恐れずに何でもやってみることが必要」だということはわかってはいますが。。
(自分の意思で気安く実行できるもの〈○の多く〉は実行済み)
「どこか遠くで1人で暮らす」の「2度と戻らない」しか方法がないとは書いておりません。
一応これらの現状打破方法全てが現状打破方法です。
もしほぼ無意味だとしても可能なものは一通り試してみたい。
何の過程も踏まずに今すぐに完全に現状打破できたりはしなかったとしても多少は意味がある。
具体的にどうするかを示すことが重要。
現状打破は諦めるべき?
無理と認定してそれを諦める意味もない。
諦める必要もない。
↑は今の現状打破法
- 小1前半の頃の現状打破法 -
ただ普通に話し出せばいい。それだけだった。
給食を食べればおそらくいけた。
そうはいかない状況になると、克服が厳しくなる。
- 小5の冬以前までの頃の現状打破法 -
当時はあまり深くは考えなかった。
克服できる時が来るとしたら、また「給食を食べて、突然…」みたいなふうに思っていた。
よくよく思ってみると、それでは困惑する。
現実的に考えみると、勉強の遅れを取り戻すこと、皆がこれまでやったことを全部やれるようになることを予めする必要があった。
実際にやってみてわかったが、それはそこまで難しいことではなかったので、現実的にできたこと。
まだ小5なら早々と取り返せた。
取り返したら、その後は実際の授業中に、皆と同じように動いて授業を受ける感覚を思い描いていく。
その暁には、安心感を得られ、学期の始めなど何か途中参加になることがない場面を狙って克服できた…可能性があった。
もし厳しかった場合、そこで転校すれば良かった。
しかし、当時の時点でも転校の意思を示すことはまずできなかった。
しかもある意味転校など絶対にしたくなかった。
あの環境が好きだったし、それに皆に手間をかけさせていたというのに、ここで逃げてはいけない。
まず「自分の心」が自分を許せない。
転校しないといけない、したい、でもしたくない…そういう微妙な心境に。
転校するくらいなら…と、目覚ましい勇気が湧き上がり、それを考えることでいける…ということも考えられた。
…惜しくも当時はここまで頭が働かなかった。
- 中学校前後の頃の現状打破法 -
この頃になると「家族と繋がりがある」限りどこへ行ってもだめに。。
繋がりをなくせば良いわけです。
一人立ちする(家族との繋がりをなくす)ことが許される年齢になるまで待つ感じになったか?
実際にはその年齢になっても↑で説明したようになかなか厳しいものだった。
ずっと「今以上の年齢にはならない」としていたので(時間は止められないためそんなことできるはずないが)、
先のことは考えたくなく、あえてあまり考えなかった。。
即ちこういうこともあまり考えなかった。
自分が自分の親なら、自分?を現状打破させることができます。
今の状態からでも間違いなくできる。そういう自信があります。
なので同様な子供がいたとしても、何も怖くありません。
どうすれば良いかの答えは↑
口先だけではなくて実践する。
知人がいなければ、なんでもないわけです。
知人の前で何かできるようにするのは理論上困難。良くなる傾向になったことはありません。
だからできる場面でできることをするようにする。それで多少何とかできる。
縁を切るのは最終手段か。そうせずとも思いきったことをしてまでしと最善を尽くせば結構な確率で行ける。
失敗しなければ何も学ばない。
つまり失敗しないようにしていたら学ばない、気付かない、分からない。
かといってあえて失敗する?のも難。
失敗を恐れないことが大事。
失敗しないようならそれでいい。
自分が家族の立場なら、家族ほど理解がないということは、「いくらなんでも」ない。
即ち何が良くて何が無駄かわかる。
自分なら、放置することもすんなりできるだろう。
理解があれば怖くないわけ。
想像の及ぶ範囲も家族より広いので、怖くなくす方法をほかにもいくつも見いだせている。
馬鹿なことに拘って制限かけたりもしない。
自分の「行動」が人を苦しめるとか、絶対に嫌なので、家族みたいなことはできない。逆にできない。
幸せになってほしいと思われていると、逆に不幸せになることをされる。
私物化もされてしまう。
自分にいたっては特にそう。
そういう普通の想いを持たれていると良くない。
何せそれが幸せではない。
自分が逆の立場なら絶対にそういう好意が裏目に出るようなことにはならないようにする。
「好意が裏目に出る」ことには厳重に気を付ける。
それがいかに大事かがわかるから。
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